恋も友も夕焼けも 4



「お姉ちゃん、最近早いですね」
「うん」
「最近暗いですね」
「うん」
「最近恐いですよ」
「だと思う」
「一雨きそうで私は非常に恐ろしいのですが」
「もうすぐ梅雨だからね」
 図書室に行かなくなってから、あっという間に数週間が経っていた。
 受験勉強を始め、模試を二、三度受けてさえ、あかりの心は図書室に置いてきぼりになっている。
 図書室ではなく、家で夕焼けを見る機会が多くなっていた。
(結子、何であんな言い方したんだろう)
 彼女が思ったことをすぐ口に出すというのは知っていたが、いつまで経っても解せなかった。
 聞いてみたいと思うものの、聞けばあっという間に友人の手を離してしまいそうで、聞くに聞けない。
(だんだん、私、不器用になってきてるなあ)
 少し前までなら、結子の発言など聞き流していたような気がする。
 少なくとも、長い期間尾を引くことなどなかった。
(何でなんだろう)
 いい変化なのか悪い変化なのかはわからなかったが、変わったのがいつからなのかは、何となくはっきりしているようだった。

 放課後のイメージが強かったからか、無意識のうちに、迫田は図書室以外にいないものだと思い込んでいた。
 だから廊下を歩いている姿を見かけた時には、心臓が止まるほどに驚いた。
 同時に、自分が迫田を避けていたことに改めて気づいて、あかりは後ろ暗い気持ちになる。
(職員室かどこかに、戻って行ってるのかな)
 向かっている方向性を考えて、そんなことを思う。
 幸い、こちらには気づいていないようだった。
 何となく、目が離せないままでいると、結子があかりの視線の先を追って、わざとらしく声を出す。
「うわー、何か、公園にいそうだよね。リストラされたサラリーマンみたい」
 びりびりと、耳からしびれが伝わってきて、不快だった。
 結子の笑みに嫌悪感を覚え、あかりは黙り込む。
(何で?)
 口に出すつもりはなかった。
「……どうして、そんな言い方をするの?」
「は? 何、いきなり」
「何か、迫田先生に嫌なことされたから、そんな風に言うのかなって思って」
 口を閉じるより先に言葉が滑り出てきていた。
 言ってしまってからあかりはうろたえる。見る見るうちに、結子の表情が変わってゆく。
 お互いに、不快感を露わにした顔をしているのだろうと思った。
「いや、知らないけど、何か存在が窓際族っぽいじゃん。変にお洒落してて、うさんくさいし。おっさんなのに」
「……それだけで?」
 結子の笑顔はずいぶんと歪んでいた。
 それすら理解できなくて、あかりの中に、ふつふつと何かがわきあがり始める。
(話したことすらないくせに)
 もし、陰口をたたく何らかの理由があるのであれば、まだ納得できたかもしれない。
 少なくとも結子の言葉は、あかりを納得させるほどの説得力を持っていなかった。
 ただ、表面をなぞって、思ったままを口にしている。結子にとっては大したことではないのだろう。
 だが、それだけの理由で、関わったこともない存在を貶すというのが、あかりには理解しがたかった。
(……ああ、似てる……)
 結子はいつも、感情的だ。全て、表面ばかりをなでて、感じたままを口にする。本質的に、何かに関わろうとはしない。
 お互い様だからこそ、今までは上手に距離を取れていたのかもしれない。
 似ていると気づいたからこそ、急に苦手になってしまったのかもしれない。
 考えて黙り込んだあかりに、結子は努めて冷静に振舞おうとしているようだった。
「何なのさっきから。私以外に友達いないくせに、そんなこと言ってるとほんとに一人になるよ」
「あなたも、私以外に友達がいないから、毎日一緒に帰ろうとか言ってくるんじゃないの?」
 いつもいつも、帰り際に誘われながら、あかりが秘かに思っていたことだった。
 自分らしくない感情と、言葉の渦に、めまいを起こしそうになる。
 ふと、どうしてこんなことになっているのだろうと考えていた。
(流せばよかったのに)
 だが、どうしても、聞き流せなかった。
 どうしても、腹が立って仕方がない。
 どこから湧いてくるのかもわからない感情に、ただあかりは押し流されていた。
「うるさいな。ホント何なの? ありえない。私他に友達いるし」
「じゃあ、何でその子と帰らな」
 言い終わらないうちに、腹に痛みを感じてあかりはうずくまった。
 思い切り蹴られたらしいと気づくのに、しばらくかかる。
 横を通って行く生徒が好奇の目で二人を見ていた。
「最低! ありえない! 友達本人の目の前で悪口とか何考えてんの?! 最悪! もう話しかけないで!」
 言うだけ言って駆け去る結子の後姿を見ながら、迫田の言葉を思い出す。
(……距離、近すぎてたんだな)
 同窓会で意気投合する余地はあるのだろうか。ぼんやり、あり得そうもないことを考える。
(やっちゃった)
 思うままを口にして、よく笑い、機嫌が悪くなれば怒る。
 快活で、朗らかと言えばそうなのだろう。だが、彼女は物事の表面ばかりを見て、本質に触れようとしていない。
 その方が楽しく、器用に生きられるのかもしれないが、どこか鏡を見ている気もして、あかりは耐えられなかった。
 何より、迫田に関わったこともないくせに蔑んだことが、許せなかった。
(同じクラスなのに、どうしよう)
 席が離れていることだけが幸いだ。
 あかりは腹を押さえながら、ゆっくりと教室へ戻り始めた。

 どこにも行く気が起きなくて、あかりは中庭のベンチで文庫本を読んでいた。
 とっくに放課後になっていて、部活に励む生徒の声が聞こえてくる。
 急に文章の上に影ができて、物語が止められた。
 顔を上げると、優しい表情の男性と目が合う。
「久しぶりですね」
 誰かはわかっていたものの、あかりはどんな顔をすればいいのかわからなかった。
 ただ迫田から目をそらして、本を閉じるべきかだけを考える。
「……体調でも悪いのですか」
「喧嘩しただけです」
「意外ですね」
 迫田は隣に腰かける。
 顔を見るのが久しぶりでもあるせいか、あかりはひたすら戸惑っていた。
「毎日来てくれていたのが、ふっつり来なくなったものだから。受験勉強かなと思っていたけれど、違ったようですね」
「……探し、ましたか」
 何故そんなことを聞いたのか、あかりにもわからなかった。
 ただ、おかしいことを口走ったように思えて狼狽する。
 迫田は気にした風もなく、うなずいた。
「ええ。とても。やっと見つけて、ここに来たんです」
 真っ直ぐに笑顔で見据えられ、あかりは何とも言えない気持ちになる。
 あの日の出来事を、迫田は全く気にしていないようだった。
 それとも、聞こえていなかったのだろうか。あるいは、聞こえていないふりをしてくれているのか。
 そのどちらにせよ、このまま甘えていていいことでないように、あかりには思えた。
 唇をかみしめながら、頭を下げる。
「ごめんなさい。すみませんでした」
「謝ることではないでしょう」
「違います。ひどいことを言ったから」
「あなたがですか?」
 驚いたように目を見開く迫田に、あかりはどう答えるべきか考える。
「……友人が、ですけど。私はそれを止めなかった」
「なるほどね……。よくあることです。誰にだって好き嫌いはあるんだし、教員をやっていたんですから、慣れてますよ」
「……」
 迫田にとっては、恐らく本当に些末な出来事なのだろう。
 そう思うもののあかりの心は晴れなかった。
「喧嘩は、お友達とですか」
「はい。何で、あんなことを言ったのか、何かあったのかって、腹が立って仕方なくて」
「彼女と、ちゃんと関わろうとしたんですね。いいことです」
「いいことですか」
「関わろうとしたけれど、ちょっと近すぎて、ぶつかっちゃった。そういうことでしょう」
 迫田が言い換えてくれると、ほんの少しだけ気分が軽くなるようだった。
 安堵しているのを自覚して、あかりは心の中のものを押し出すように息を吐く。
「金谷さんはその友人が嫌いなわけではないでしょう。ただ、今は少し食い違っているだけ。腹が立って、喧嘩したのは、友人を知ろうと、関わろうとした証拠です。違いますか」
「……違わない気がします」
 今までは、近くにいても本質的に関わろうとしていなかったから、うまく行っていた。
 距離が近いことに気づいてすらいなかった。
 腹が立つようになったのは、結子の話をしっかり聞くようになってからだ。
(関わろうとしたんだ、私)
 自分でも予想外だった。
「よく頑張りましたね」
 影が伸びる。大きな手があかりの頭に触れそうになった途端、迫田は慌てて手を引いた。
(……あれ)
 少しだけ寂しい気持ちになる。
 迫田は動揺しているのか、あかりから目をそらした。
「だめだな。ついつい、……」
「?」
 後半がよく聞き取れず、あかりは首をかしげる。
 迫田は咳払いをして、いつものように穏やかに笑った。
「つい、娘と同じように接してしまうな、と」
 あかりは自分の複雑な心境に気づいていた。

 翌日から、あかりは一人になった。
 だが、今は少し、時間と距離を置くべきだとわかっていた。
 それは彼女も同じであるらしく、朝から一切の会話はない。
「金谷さん」
「はい」
 昼を中庭で食べようと教室を出たあたりで、あかりは呼び止められた。
 薄気味悪い笑顔を浮かべるクラスメイトに、思わず身構える。
「結子に暴力振るわれたってホント?」
「……暴力って」
「一方的にぼこぼこにされてたって聞いたよ」
 どこから伝播したのかを考えて、喧嘩中に好奇の目を向けながら通り過ぎた生徒の顔を思い出した。
 同学年にいたような気もするが、定かではない。
 ただ、目の前の生徒の笑みが非常に不快であるように感じて、あかりは苦笑いを返す。
「あの子はそんなことしないよ。ちょっと、カッとなりやすいだけで」
「でも女王様でしょ、かなり。だからみんな近寄らなかったんだけど、金谷さんは仲よくしてるからすごいなって思ってた」
「明るくて、元気でいい子だと思うけど」
 普段話したことのない生徒とあかりが話しているのが珍しかったらしく、もう一人生徒が寄ってくる。
「ねえ、何で今日は一緒にいないの?」
 同じように、好奇の目を向けていた。
 うまい返しが見つからず、あかりの口から言葉が滑る。
「いや……。その、喧嘩しちゃって」
「やっぱり暴力振るわれたんじゃん」
「最低ー」
 話が一周してしまった。
 自分が結子を孤立させる要因を作ってしまっているような気がして、あかりは首を振る。
「でも、原因は、私だから」
「そうなの?」
「原因知りたーい、なになに、男関係?」
「違うよ……」
 迫田のことで喧嘩をしたのだから、あながち間違いではないのかもしれないが、大いに違っている。
 このままでは間違った話が伝播してしまう。
(結子に変なイメージがついちゃうな……)
 結局その日の昼休みは、クラスメイトの想像をひたすら否定する作業で終わってしまった。



もどる ←3へ 5へ→


inserted by FC2 system