恋も友も夕焼けも 5



 何となく図書室には寄りづらくて、あかりは下駄箱へ向かう。
 結子はとっくに一人で教室を出て行ってしまっていた。
 望んでいたことではあるが、経過が経過だけに、素直に喜べはしない。
(これから毎日こうなのかな)
 結子はあかりに話しかけてくることもなく、受験勉強のせいで図書室にもそうそう寄れはしない生活になるのだろうか。
 残り、たった一年足らずのことではあるがどうにも淀んだ気持ちがぬぐえなくて、あかりはため息をつく。
 空がまだ青いうちに校門へたどり着くのが、最近は当たり前になっているようだった。
「わっ」
 いきなりぐいっと肩をつかまれ、あかりはよろける。
 何とか体勢を立て直すと、今日一日目も合わせてくれなかった顔があった。
「昼休み、何話してたの」
 いら立ちを隠そうともせずに話しかけてくる結子。面食らいながら、怒りがまだ継続中であることに妙に感心する。
 落ち着いてじっと表情を見てみると、小さな子供のようにも見えた。
(私もこの間は、子供みたいだったんだろうな)
 そう考えると、妙におかしくなってきた。
「ちょっと、人の話聞いてんの?」
「聞いてる聞いてる。この間の喧嘩、見られてたみたいだったから、誤解を解いてた」
「誤解?」
 語尾が上がる。因縁をつけてくるヤンキーのようだ。
 不思議と、結子のトーンが上がるほどに、あかりの気持ちは落ち着いていくようだった。
「結子に原因があるって思ってるみたいだったから、私が悪いんだよって言っておいた。効果あるかはわからないけどね」
「嘘! 悪口言ってたんでしょ、どうせ! この間みたいに、友達いないとか言ったくせに!」
「嘘だと思うなら、聞いてきたらいいけど……」
 大きな声で叫ばれて、あかりは戸惑い気味に答えた。
 全身で怒りを表す結子に、周囲の目が気になってくる。
「……ここで騒いでるとまた何か言われるよ。とりあえず、一緒に帰ろう」
「何それ?! 一緒に帰るとでも思ってんの? 余裕ぶってかっこつけて腹立つ」
「帰らないならそれでもいいよ。この間は、私も子供みたいなこと言ってごめん。ただ、悪く言われるのが我慢できなくて」
「は?! 別に嫌いなんだからいいじゃん、そんぐらい」
「結子がいくら先生を嫌いでも、私は迫田先生が好きなんだよ」
 はっきり断じたあかりに、結子は大きく目を見開く。
 何かを叫ぶように口を開いた後、叫ぶ言葉を失ったのかそのまま口を閉じた。
 代わりに、まっすぐあかりをにらみつけてくる。
「むかつく……!」
「うん。お互い腹が立つと思う。でも、本当に見た目だけで迫田先生が嫌いなの? もしそうなら、私はもう、結子と関われない」
「……」
 どうして、関わったこともないのに、知らないのに、あんな言葉が吐けるのか。
 どうして、関わったことすらないのに嫌いになれるのか。
 理由だけでも、聞いておきたかった。
「元々、むかついてたんだよ」
「何が?」
「何もかも。人の誘いは断るくせに迫田のいる場所にはさっさと行っちゃうし」
「……」
 今度はあかりが黙る番だった。
 結子は目をそらし、苦々しげに吐き出す。
「どんどん友達が離れて行っちゃう中で、あかりだけはいつも話聞いてくれて、一緒にいてくれたのに」
「それは……」
「確かに私は友達いないよ。女王とか陰で言われてるのも知ってる。でも性格なんだから直しようがないじゃん」
 口が過ぎる点は確かにあるが、素直であることに関しては美点だと、あかりも思っていた。
「あかりは分かってくれてると思ってたけど、よく見たらただ上の空なだけだって分かっちゃって」
 否定することはできなかった。
「図書室で本読んでるあかりの姿見てびびったもん。別人かと思った。何か、余計に腹が立った」
「……そう」
「昨日、中庭で迫田と喋ってるのを見て、もっとむかついた。何なの、あれ。いつもは、ホントはあんななのって」
 結子のいらだちは、迫田に向いているように見えながら、根本的にはあかりに向いているのだろう。
 今まで、長い間傍にいながら、関わろうとしていなかった代償でもある。
 傍にいながら存在を無視していたようなものだから、結子が怒るの無理はない。
「ごめんね」
「もういい。私バカみたいじゃん」
 ふてくされたように、結子は吐き捨てる。
 あかりは笑いかけた。
「話してくれてありがとう。こういう話は、したことなかったよね」
「……。私、こういう本音の話、苦手だから。適当に騒いで、適当に話してってする方が、性に合ってる」
「そっか」
 やはり、根本的には似た存在であったらしい。
 結子は大きく息を吐き出す。
「何なの、私ばっかり怒って。むかつく、腹立つ、ホント、もう」
「私も、喧嘩した後こういう態度取られたらちょっと腹立つと思う。ごめん」
「あーもう! ごめんごめんうるさい! そうやって謝られるとこっち悪者だし謝れないでしょ!」
「えええ……?」
 どうやら、怒りの感情をうまく制御できていないらしい。
 八つ当たりになってきたのがおかしくて、あかりは必死に笑いを抑える。
 結子は大きく息を吸うと、少し苛立ちの残る口調で告げた。
「……迫田に関して適当言ったのは悪かった。あかりが迫田のこと好きなのも分かった。でも、……認めたくない」
「それでいいよ、今は」
 もしかしたら、いずれ、分かってくれるかもしれない。
 ともかく今は、結子の中にある言葉を聞けて良かった。
「ちゃんと、本音話してくれて嬉しい」
 あかりがそう言うと、結子は気まずそうな表情をした。いら立ちは少しずつ、消えていっているらしい。
 恐らく、胸の裡を吐き出したからなのだろう。
「私もあんまり、本音で人と関わるのは好きじゃなかった。結子と似てたのかもしれないね」
「……。あっそ」
 影が長く伸びている。
 ずいぶんと長い間ここにいたらしい。空は暮れかけていた。
「帰ろ」
「……」
 二人は並んで歩きだす。
「……蹴っちゃったのは、ホントに、悪かったと思ってるから」
「うん。結構痛かったよ」
 仕返しをしながら、あかりは笑う。
(結子が、私みたいに、少しずつ変わって行ってくれたらいいな)
 少なくとも、同窓会までには。
 あかりは迫田の顔を思い浮かべていた。

 校舎には毎日蝉の声が響き渡っていた。
 周囲はすっかり受験モードに突入し、図書室にはなかなか通えない。
 通ってすら、自習室代わりの利用者が多いため、集中して本を読むことはできなかった。
 ただ、夕焼けの図書室は相変わらず好きな場所だったから、息抜きに通ってはいた。
(あ……)
 図書室の扉の前に立ち、あかりは中の様子に気づく。
 カウンター越しに話しているのは、迫田と結子のようだった。
 まぶしい半袖で快活に笑う彼女に、あかりはその場で立ち尽くす。
(何だろう)
 あかりと結子は、校門での一件以来、前より仲良くなっていた。
 今は、何でも話せる間柄である。
 だから遠慮する必要などないはずなのに、あかりの足は勝手に動き、下駄箱へ向かう道をたどり始める。
 迫田と結子が話をすることに異論はなく、以前のように陰口をたたくよりはずっといいとさえ思う。
(落ち着かない)
 妙な不安が心のどこかにあるようだった。
 靴を履き替えながら、不安の原因を探し始める。
(仲良くなるなら、別にいいじゃない)
 自分と同じように、結子も迫田に心を開いて、仲良くなればいい。
 いつか、迫田は彼女に丁寧な話し方をやめるだろう。
 そして彼女にもお菓子を渡して、たわいもない会話をするようになり、頑張ればほめてくれるようになるかもしれない。
(……結子なら、なでてもらえるのかな)
 いつかの中庭のことを思い出す。
 あかりの心に、暗雲が立ち込めてくるようだった。
 どこにも居場所がないような気がして、ただひたすらに心が安定しなかった。

 翌日も、気持ちがふらついたままだった。
「あかり、おはよう」
「あ、おはよう」
 上機嫌な結子。
 笑顔を返しながら、あかりは聞いてみる。
「昨日、図書室にいた?」
「いたいた。噂の迫田先生と喋ってみた」
「噂って……」
 迫田のことで喧嘩したのは、もう一月ほど前の話だ。
 いまさら何を、と戸惑うあかりに、結子は声を潜める。
「友人の好きな人くらい把握しておきたいじゃん」
「どういうこと」
 結子に宣言した覚えも、自分でその気持ちを認めた覚えも全くなかった。
 いきなり突きつけられた言葉に困惑していると、結子も眉根を寄せる。
「え? でもあかりは迫田先生好きじゃないの」
「……言ったっけ、そんなこと」
「校門で喧嘩した時。結構前だけど」
「え……。あ」
 思い起こして、あかりは赤面する。
 自分では落ち着いていると思っていたが、結構無茶なことを口走っていたらしい。
(……自覚しないつもりだったのに)
 無意識のうちに、零れ落ちてしまっていたのだろう。
 気づかないふりを続けるつもりだったはずなのに、とっくにそれは通用しなくなっていたようだ。
 結子は大きなため息をついた。
「喧嘩売りに行ったつもりだったんだけどさ……」
「やめて」
「やめても何も。あれだね、迫田先生、あかりのことホント可愛いみたいね。毒気抜かれた……。負けでいい」
 どんな会話だったのか、あかりは何となく想像ができた。
 迫田であれば、喧嘩腰の相手にも穏やかに対応して丸め込んでしまうだろう。
 呆れ切った表情の結子に、あかりは小さく笑う。
「娘みたいって言われたからね」
 自慢しているのか自虐の発言なのか、あかりにも判断はつかなかった。
 ただ、特別扱いには違いないだろうとは思った。
「娘って言うか、あれは……。まあいいや。今日行けば?」
「……。うん」
 不安定な気持ちはいつの間にか落ち着いていた。
 何だか照れくさい気持ちだった。

 最近は日が長くなって、下校時刻でも夕焼けにはまだ遠い。
 自習の生徒が帰り始めた図書室で、あかりは久方ぶりに本を借りることにした。
「はい。では、夏休み明けの返却をお願いしますね」
 迫田から本を貰い受けながら、あかりはうなずく。
 結子とのやり取りを思い出したせいか、まっすぐ迫田の顔が見られなかった。
 言葉少ななあかりに、迫田は意地の悪い笑顔を浮かべる。
「……勉強疲れ?」
「いえ、違います」
 意識しまいと思えば思うほど、視線は定まらなかった。
 迫田の笑顔の向こうにある感情が分からなくて、あかりは問いかける。
「あの、昨日、結子、何か言ってましたか」
「うーん、どの子だろう」
「笹田さん」
「……。えーっと……」
 額に手を当ててどうやら迫田は本当に考え込んでしまったらしい。
 あかりはちらりと図書室を見渡して、順番待ちの生徒がいないことを確認した。
「ちょっと茶色めの髪を肩くらいまで伸ばしてて、私より少し背が高くて、……私の友達なんですけど」
「ああ、あの子か! 笹田さんって言うのか。金谷さんの友達だとは分かったけど、名前までは知らなかった」
 思いもよらない言葉に、あかりは目をぱちくりさせる。
「意外ですね」
「僕は名前と顔がなかなか一致しなくてね……。教員の時はがんばってたんだけど、この職に就いてからは、難しくて」
「そんなものですか……」
 あかりは、初めて迫田に声をかけられた時のことを思い出す。
 自己紹介をした覚えもなかったのに、いきなり話しかけられたはずだった。
「ちなみに、金谷さんのことはね。毎日毎日、指定席に座って、一人で本を読んで、そして借りて帰って行ってたから。気になって、覚えちゃったんだよ」
「ありがとうございます……?」
 言いながら、お礼を言う場面でもないような気がして疑問形になる。
「興味があることって、覚えるのが早いでしょ。そういうことだよ」
「あー、そうですね」
「あれ、ピンと来てないな。まあ、まだ分からなくていいけどね」
「……?」
 くすくすと笑う迫田の表情は、残念そうでもあった。
 意図が分からず、あかりは首をかしげる。気づけば、図書室にはあかりと迫田しか残っていなかった。
 迫田が続ける。
「残念ながら、僕がこうやって構っているのは金谷さんだけだからね。諦めてくれるとありがたい」
「そうなんですか」
「うーん。冷たいなあ」
 迫田は再び額に手を当てる。
 あかりはどきどきする心臓を抑えるのが精いっぱいだった。
(……娘、娘)
 娘扱いしているから、こういったことを言うのだろう。
 振り回されそうになる感情を押しとどめ、あかりはカウンターに目を落とす。
 迫田が苦笑した。
「僕が遠回しすぎるのが悪いんだろうな。大丈夫、何でもないよ」
「……はい」
(何が大丈夫なんだろう)
 その疑問は口に出さなかった。
 図書室が静かになる。何となく手持ち無沙汰で、でもこの場を離れがたくて、あかりはしばらく黙っていた。
 この静寂は、嫌ではなかった。
 窓の外から、楽しそうな生徒の声が聞こえてきてあかりは我に返る。
 迫田が告げた。
「これから受験勉強で、なかなか来られくなるだろうね。でも、たまには息抜きに、顔を見せてくれたらうれしい」
「はい」
「待ってるよ。二学期でも三学期でも、何なら、卒業式の日でも。開けておくから」
 迫田の言葉に、あかりははっと気づく。
 意識していなかった単語だった。
「……卒業式」
「ずいぶん先だと思ってるかな。意外と、早く来るよ」
「そうですか……」
 三年生で、受験を目の前にしているというのに卒業を意識していなかったというのは滑稽かもしれない。
 迫田のいる図書室は居心地がよかったから、ずっとこれが続くのだと無意識に考えていた。
(卒業か)
 これから、図書室に来る機会は格段に減るだろう。
 卒業してしまえば、ここに来ることさえなくなる。
 言いようのない感情が胸の片隅に生まれたようだった。



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