恋も友も夕焼けも 3



 夕暮れの図書室は変わらずに静かで、暖かかった。
 壁に貼ったカレンダーが五月に変わっていて、あかりは改めて月日の流れを感じる。
(夏くらいからは、来られなくなるな)
 本を読んで、返却と貸し出しの際に迫田と話をする毎日。
 受験勉強のことを考えると、ここに来られるのはあとせいぜい二ヶ月程度である。
 図書室で勉強することもできるだろうが、読書の誘惑に勝てる自信はなかった。
(戦う前の、休息の時間みたいなものかな)
 あかりはカウンターの向こうに迫田の姿を確認する。
 ほとんど無意識での行動であった。
 新刊の入ってきていた外国文学の本を手に取り、あかりはいつものように本を読み始めた。

 下校時刻になる少し前、迫田が近づいてきたことに気がついて、あかりは本を閉じる。
 目の前に、小さなクッキーの袋が置かれた。
 意図が分からず困惑するあかりに、迫田はいたずらっぽく笑う。
「……お土産でもらったんだけど、食べきれないからね。他の先生には、内緒にしてね」
「ありがとうございます」
 あかりは笑って頭を下げる。
 ふと、あることに気がついて目を泳がせた。
(いつのまに、話し方が変わってたんだろう)
 考えて、少し前から既に話し方が変わっていたことに気がついた。
 意識するとそわそわして、落ち着かない。
「……どうしたの? 甘いものは嫌いかな」
 迫田は変わらぬ表情で笑っている。
「あ、えっと、何でもないです、いただきます」
 何となく、あかりが狼狽していることも、その理由も、迫田には筒抜けであるような気がした。
 どうしてか、そのことがむずがゆかった。

 静かであるからか、さほど大きくないはずの迫田の声もよく響いていた。
「では、次ですが……」
 図書委員に指示を出す穏やかな声。
 気にしているわけではないはずなのに、何故かあかりの耳には内容がよく聞こえていた。
(図書委員には、敬語なんだ)
 昨日のことを思い出して、あかりは本の世界から引き戻される。
 もらったクッキーはまだ制服のポケットに入ったままになっていた。
(何で私には、敬語じゃないんだろ)
 ある程度話をする相手には丁寧な話し方をやめるのだと思っていたが、違っていたらしい。
 もしかしたら、あかりだけなのかもしれないと考えた途端、落ち着かない気持ちになった。
(そんなわけない。娘さんや、奥さんには当然、敬語で話していないはず)
 心を落ち着けようとそう考えた途端、今度は心が揺れ動き始める。
 娘がいるとすれば、おそらくあかりくらいの年齢だろう。
 伴侶は恐らく、迫田と同い年くらいで落ち着いた妙齢の女性であるはずだ。
(そうだよね)
 自分だけが特別扱いを受けているのだと、勘違いしそうになっていた。
 同時に、特別扱いを望んでいたらしい自分の心情に気づき、あかりは眉根を寄せる。
(ダメだなあ……)
 この空間がずいぶんと心地いいからか、おかしな方向に心が向かいそうになっている。
 緩み始めた心を叱咤して、あかりは目を閉じた。
 穏やかな声が聞こえてくる。声を意識の外に追い出して、あかりは本の世界へ戻って行った。

 何となく、借りたいと思える本がなかったので、その日は返却だけをすることにした。
「今日は借りて帰らないの?」
「宿題が多くて、終わりそうにないので」
「そうか、そろそろそんな時期だね」
 迫田は変わらず、穏やかに笑っている。
 優しく好ましい笑顔であるにもかかわらず、あかりは何故か迫田を直視できなかった。
「金谷さん?」
 あかりが視線を戻すと、迫田が少し意地悪い顔をしているような気がした。
 こちらの狼狽も見通しているのだろうと思うと、あかりは複雑な気分だった。
 迫田が椅子に座り直して、まっすぐにあかりを見据える。
「金谷さん、いつも話に付き合ってくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ……」
「落ち着いて、素直に聞いてくれるから話しやすいんだ。ごめんね」
 迫田は少し困っているようにも見えた。
 何故謝罪されているのかを考えて、初めは冷たい態度をとっていたことを思い出す。
 気にしているのかもしれないと思い、あかりは首を振って笑った。
「お話、楽しいですから」
「ありがとう。僕も、もっと他の生徒とも仲良くしないとだめだなあと思ってるんだけどね。なかなか」
(……じゃあ、私は)
 少なくとも、他の生徒とは違う応対をしてくれているのだろうか。
(……)
 何気なく言った言葉なのか、意図して放った言葉なのか、あかりには判断がつかない。
 ただわかるのは、自分の感情の揺れ動きを、迫田が観察しているらしいことだけだった。
 ともかく素直な感情はおくびにも出さずに、聞かなかったふりをしてあかりは問いかける。
「……先生って、教科は何なんですか」
「僕は明確には教師ではないんだよ。事務員みたいなものであって」
 あかりの質問に、迫田はさらりと答える。
 意外な返答で、あかりは首をかしげた。
「でも先生って呼ばれていませんか」
「そうだね。昔、ここで教員もしてたからね」
「そうなんですか……」
 ふと、迫田の年齢が気になった。
 今、事務員をしているということは一度退職したのだろうが、とても定年を迎えたようには見えない。
 あかりがいろいろと考えていると、迫田は穏やかに語り始めた。
「教員をしてたんだけど、妻が亡くなってね。……まだ娘も幼かったし、しばらく教職を離れてたんだ」
「娘さんが」
 子供の面倒を見るために、一時期教員をやめていたということだろう。
 あかりにもそれは理解できた。
「娘は、金谷さんより少し年上だね。今はもう一人暮らしをしてるよ。教員に戻ってもよかったんだけど、他の方法で生徒と接してみたくて」
「……それで、図書室の先生になったんですね」
「そういうことだね」
 父親としての迫田は、容易に想像できた。
 差し込む夕日のせいか、暖かいような寂しいような気持ちになって、あかりはうまく言葉が出てこなかった。
 カウンターはオレンジ色に染まっている。しばらくの間、会話はなかった。
 やがて、迫田が思い出したようにつぶやく。
「ああ、こんな時間だ。たくさん話してくれてありがとう。また明日。待ってるよ」
「はい。また明日……」
 そう言って図書室を出ながら、あかりは迫田との会話を反芻していた。
(また明日)
 心なしか、口元が緩んでいるようだった。
 あの空間は、あの席は、あかりの居場所だ。
 喧噪の高校生活の中で、一人になれる場所を求めていたはずだったが、今は違う。
 図書室は、迫田がいて初めて完成しているような気がした。
(……娘さんか。私より、年上なんだ)
 そこまで考えて、あかりは立ち止る。
 どうしてか、複雑な心境だった。
(いるのは当たり前だよね。私のお父さんと同い年か、それより上だろうから)
 父親としての迫田も、容易に想像できる。きっと優しい父親なのだろう。
 好ましく思う一方で、絶対に越えられない一線をひかれてしまったようで、あかりは寂しくなった。
 寂しさがどの種類の感情からやってくるのかが見えた気がして、あかりは眉根を寄せる。
(私はただ、傍にいて本を読んでいたいだけだ)
 夕焼けの教室で、迫田に見守られながらただ本を読んでいたい。
 静かで優しい時間を過ごしたいという感情しか、今はないはずだ。
(……でも、どうしてあんな、挑戦的なことを言ったりしてくるんだろう)
 無意識に言っただけなのかもしれないが、「待ってる」はあかりの心を動揺させるに十分だった。
 娘のように思われているのだろうかと考えた時、妙に腑に落ちるような気がした。
(そういうことか)
 それならばそれで、構わない。少なくとも、目をかけてもらっていることは確かなのだから。
 校門から図書室を振り返って、あかりは歩き出した。

 図書室に見知った影が入ってきた時から、嫌な予感はしていた。
「あ、あかり、いたいた」
「……どうしたの、珍しいね」
 結子はあかりの席まで突き進んでくると、そのままぴたりと横に立つ。
 妙に近い気がして、あかりはどうしてか不愉快な気分にさえなっていた。
「だって、あかりなかなか一緒に帰ってくれないからさ、迎えに来ちゃった」
「そう、ありがとう」
 狼狽しているのを悟られないように、あかりは笑顔を作る。
 今までこの空間に彼女が入ってくることなどなかったから、どうすればいいのかと逡巡する。
(帰ってもらおうかな)
 自分の態度が冷たくないか、あかりは今一度考えた。
 あきらめて共に帰った方がいいかもしれないと思った時、結子はくすくすと笑い出した。
 その笑いが何だか不快なものであるような気がして、知らず、あかりは彼女をにらみつける。
 気にしていないのか、結子は気味悪くにやにやと笑って、カウンターを指さした。
「あのおじさん、窓際族? すっごいくたびれてるって感じ」
「……」
 彼女の口から出てきたのが蔑みだと気づいた瞬間、体に血が上ったように感じた。
 あなたが何を知っているんだと言いかけて、あかりはあわてて自分を抑える。
 結子はなおも続けた。
「私、迫田うさんくさくて超苦手。ていうかここ、静かすぎだよね。何で毎日こんなところ来てんの?」
「本、読みたいから」
 自分でも冷たくて重たい声だったように思う。
 カウンターの迫田と目が合った気がして、あかりの体から今度は一気に血の気が引いた。
 静かな空間では、小声でも響いてしまう。
(あ……)
 迫田に聞かれたのではないかと思うと、いたたまれなかった。
 結子は気にした様子もない。
「はいはいもういいから。帰ろうよ、私お腹すいたし」
「え……」
 あかりから本を取り上げて、彼女は教室の出口へ向かう。
 その途中で、適当な棚に本を置いてしまった。
「帰ろうよー、本ばっかじゃつまらないでしょ」
 廊下に声が響く。
 あまりにもいたたまれなくて、あかりは無言のままその場を後にした。
 迫田の顔など、見ることができなかった。
 ただ、自分の顔はきっとひどいものだろうと思った。

 翌日になるのがつらかった。
 だがいくらあかりが願ったところで、朝は来て、結子は変わらずにきゃんきゃんと騒いでいる。
 彼女の喧騒を苦々しい気持ちで眺めている間に、放課後になってしまった。
 結子がまた一緒に帰ろうと騒ぐのを断り、あかりは夕暮れの教室で鞄に顔をうずめる。
 どうするべきかをひたすらに考えていた。
(……図書室に、顔出せない)
 借りている本がなかったのが、幸いだろう。
 迫田に陰口を聞かれたかもしれない。
 何より、あかり自身も同じように思っていると勘違いされたかもしれない。
 昨日の失態が頭にこびりついて離れなかった。
 どうしてあの場で言い返さなかったのかと後悔しながら、それができるわけなどなかったのも、分かっていた。
 考えても考えても、解決策は浮かばない。
 こういう時、迫田ならどう言ってくれるだろうかと矛盾したことを考えて、さらにあかりは落ち込んだ。
(帰ろう)
 これから、図書室には行けそうにもないということだけが分かっていた。
 会って謝ればいいのかもしれなかったが、もし迫田自身が聞いていなかったら、反対に敬遠される要因を作ってしまう。
 たわいもない会話をする空間が消えてしまうのは、耐え難かった。
(また明日って、言ったのになあ)
 その約束は、明後日にも、明々後日にも伸びていきそうだった。



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