恋も友も夕焼けも 2



 翌日、図書室に行かないと決めていたものの、あかりは新しく知った作家の他の本を読みたくて仕方なかった。
 昨日で、短編集は読破してしまっている。
(どうしよう)
 そう躊躇していたのは、朝の間だけだった。
 結局は、本を読みたい欲求の方が勝ってしまい、いつものように結子の誘いを断って図書室に来ている。
(他の人に借りられてないかな)
 懸念したものの、本棚には目当ての作家の著書がたくさん並んでいた。
 他の生徒も、この厚さにためらっているのであればもったいないなどと思いながら、あかりは数冊の本を棚から抜き出す。
(家で読むのもありかな)
 本だけ借りて帰るべきか、ここで読むべきか躊躇する。
 ちらりとカウンターに目をやると、迫田はパソコンに向かって何か作業をしているようだった。
 安堵したような、少し予想外でもあるような気になりながら、あかりはいつもの席に向かう。
 優しいオレンジの光がさしていた。
(分厚いから敬遠してたけど……。読みやすいんだよね)
 文体が優しく、読みやすく、わかりやすい。
 気がつけばページを繰っているから、長さはさほど気にならなかった。
 何故今まで敬遠していたのだろうとあかりは少し残念にさえ思っていた。
(迫田先生にも、失礼だったな。昨日)
 ただ、自分に合うものを勧めてくれただけだというのに、毎日近づいてくるつもりだろうかと無駄に警戒してしまっていた。
 できるだけ、態度に出さないようにしていたとはいえ、失礼なことを思っていたものだとあかりは反省する。
 同時に、自分が殻に閉じこもりがちであることを、自覚しつつあった。

 今日は、読書の途中で話しかけられることはなかった。
 下校時刻になる前に立ち上がると、あかりはカウンターへと向かう。
「気に入ってもらえたみたいですね」
 あかりの借りる本を見て、迫田の顔が綻ぶ。 
 昨日よりは落ち着いて、迫田の目を見ることができた。
「ありがとうございました。読みやすかったです。私、同じ人の作品ばかり読んでしまうので」
「一途なのはいいことですが、別の作者、別の考えを知るのもためになると思いますよ。本は人との出会いですから」
「……なるほど」
 妙に腑に落ちる言葉だった。
(……本ならできるのにな)
 テリトリーを作り、常に警戒して、そこへ侵入してくるものから逃げ出す。
 今日も、図書室に来るかどうか躊躇していた。
 誰に対してもできるだけ、関わらないようにするのはあかりの癖でもあった。
「たくさん読むことです。合わないものもあるとは思いますが、読んでみることでわかることもあります」
「はい。……視野が狭いので、ありがたいです」
 優等生のような答えを口にしながら、自分のことを言われているような気がして、あかりはうろたえていた。
 心のどこかをつつかれたような気になる。
 聞かないふりをしようと思ったが、迫田が正しいことを言っていると、頭の隅でわかっていた。
「無理にとは言いませんが、少しずつ、視野を広げるのもいいでしょうね」
「そうですね……」
 穏やかな声は、すんなりと耳に入ってくる。
 本を渡されながら、あかりはじっと考えていた。
「ここにはたくさん本がありますから、どうぞたくさん読んでくださいね」
 大きな手が目に入る。
 目の前にいる大人の言葉にあかりがじっと考えていると、迫田は少し困ったように笑った。
「ああ、喋りすぎてしまったかな。話を聞いてくれてありがとう」
 鷹揚な態度に、あかりは昨日までの自分の心情を改めて恥じる。
 自分がずいぶんと小さな子供であったような気がした。
 言うべき言葉を考えて、ようやっと口に出す。
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございました。さようなら」
「はい、さようなら。気をつけて帰りなさい」
 不思議と、嫌な気持ちではなかった。

 あかりが読書しているとき、ひなたはほとんど邪魔をしない。
 ひなたなりに気を遣っているのだろう。
 だから、本を読みながらあかりが話しかけた時、妙に驚いた顔をしていた。
「ひなたの学校の迫田先生って、どんな人?」
「え?! いきなりどうしたのですか」
「何となく、気になって」
 気になっているのは、迫田に言われた言葉だった。
(読んでみて、分かること……)
 妙に、心の中に残っている。
 人と関わってみて、分かることもあるのかもしれない。
 今まで、人から言われた言葉を、ここまで気にすることはなかった。
 本という、自分の好きなものに関することだったから、素直に自分のことと照らし合わせられたのだろう。
「迫田先生は、かっこいいんですよ」
「……見た目が?」
「見た目も、何もかも大好きなのですが、案外ちゃんと生徒のことを見ているんです」
「生徒のことを……」
 それは、あかりの知る迫田にも言えることであるような気がした。
 あかりの名前も知っていたし、わざわざ本を探して勧めてくれさえした。あの時カウンターに置いてあったのは、準備してくれていたからだろう。
 教師ならば大したことではないのかもしれないが、少なくとも無関心に放置しているわけではない。
(私に、関わろうとしているのかな)
 距離をいきなり詰めてくる馴れ馴れしい人は苦手だ。
 だが、こんなにも迫田の言葉が気になるということは、どこかで、人と関わってみようとする気持ちがあるのかもしれない。
(私も、少しだけ、関わってみようかな)
 苦手だから、一人の時間がなければ息苦しいからと、できるだけ人と関1わるのは避けていた。
 だがよく考えると、人とあまり関わったことがないから苦手で、苦手だから人と関わらないという循環を繰り返していただけのようにも思えてくる。
(特に、理由とかなかったんだ)
 ただ、苦手で、関わろうと思わないだけだった。
 そう気づいて、あかりは本を閉じる。
(少しだけでも、話をしてみようかな)
 自分でも驚くようなことを考えていた。
 少なくとも、もう初めのような嫌悪感は迫田に抱いていないようだった。

 少しずつ、図書室からの帰り際に迫田と話すようになってから、数日が経過していた。
 それと並行して、結子の機嫌が悪くなっていく。どうやらこの友人は、あかりが放課後図書室に直行するのが嫌であるらしい。
 掃除の後、教室に戻りながら、あかりは彼女の言葉を聞いていた。
「せっかく同じクラスになったのに、つまんない」
「あはは。中学の時の子たちとは、連絡取ってるの?」
「取ってないよ。みんななんか忙しいとか言って、相手してくんない。ありえないよね、今から勉強とか裏切りじゃん」
「そう……」
 相変わらず、表情が目まぐるしく動いている。
 今までは半ば感心しながら聞いていたが、周囲を批判する彼女の言葉に、あかりはおよそ初めて疑問を覚えた。
(それは勝手な言い分じゃないかな……)
 心の中に疑問は浮かんだものの、言葉にはせず、適当に相槌を打つ。
 いつものようにあいまいにだけ笑っておいた。
「ていうか、どっちにしろ帰る方向別だけどさあ。下駄箱ぐらいまで一緒に来てくれてもいいじゃん」
(ひとりで行けるでしょうに)
 普段なら気にしたことのない会話の内容が、今日はやけに気になる。
 聞き流せなくなっていることに驚く一方で、今まで自分が友人の会話を真剣に聞いていなかったことに気づいた。
(こういうことも言ってたんだな)
 気づかれないように、友人の顔を盗み見る。
 いつの間にか、彼女は髪を切っていたらしい。
 その話も聞いた気はするが、いつ話されたのかは覚えていなかった。
(……どうして急に、こんな、苦手みたいになったんだろう)
 何となく、迫田と話をしだしてからであるという気はしていた。

 昼から雨が降り出したせいか、図書室はずいぶん暗かった。
 少しの間本を読んでいたが、どうにも集中できなくて、あかりはいつもよりずいぶん早くに席を立つ。
 カウンターに向かうと、図書委員らしき生徒が座っていた。
 返却分の本を渡し、貸出手続きも済ませる。
「では、こちらは来週の水曜日までです」
「はい」
 そっけない会話だけをして、あかりは図書室を去った。
 考えたいことがいくつもあって、帰宅してからも読書には集中できなかった。

 翌日、何となく気分が重たいままだった。
 どうやら表情に出ていたらしく、放課後の図書室であっさりと迫田に指摘される。
「疲れた顔をしていますね。受験勉強がつらいのですか」
「いえ。勉強、嫌いじゃないんで」
 本の貸し出しの際に話すのは、習慣になりつつあった。
 ただ、指摘されるほど表情に出ていたというのが自分でも意外で、あかりは何となく笑ってみせる。
「学ぶことが好きなんですか。素晴らしいですね」
「……現代文とか古典の教科書とかは、新学期になるとついつい読んでしまいます」
「活字病ですか。僕もです」
 迫田の笑顔も見慣れてきた。
 眼鏡の奥の瞳は優しそうで、人柄の良さがにじみ出ている。
 鷹揚で落ち着いた雰囲気は重ねてきた年齢を感じさせた。
 何を言っても受け止めてくれそうな気がして、あかりはつい口に出していた。
「友人のことが、急に苦手になってしまったんです」
「急に、ですか」
 唐突な言葉だったのに、迫田は驚いた様子もない。
 何となく差を感じながら、あかりはうなずく。
「……はい」
「今までは、どうだったの?」
「今までは……」
 考えてみて、あかりは今まで自分が結子自身に好悪の感情を抱いてなかったことを思い出した。
 ただ、一人か二人程度は友人を作っておかないと教師から目をつけられやすくなる。
 それが煩わしくて、何より三年生の今、改めて友人を作る余力もなくて、惰性で一緒にいた。
(最低だなあ……)
 関わろうともしていなかったから、恐らく何とも思っていなかったのだろう。
「今までは、考えたことなんてなかったです。好きも、苦手も」
「そうなんだ。じゃあ、苦手だって、最近ようやく気づいたのかもしれないね」
「……そうかもしれません」
 結子は、以前から何も変わっていない。
 ただ、自分の方の気持ちが、少しずつ変わっていっているだけだ。
「何で、その友人のことが苦手なんだろう?」
「……。自分本位というか。明るくて素直なんですが、少し、自分の気持ちに素直すぎるというか、感情的で」
 陰口にはしたくなくて、あかりは言葉を選ぶ。
 迫田は感心したようにうなずいた。
「よく見てるんだね」
「基本的には、一緒にいるので」
「いつも?」
「……そうですね」
 いつも一緒にいるからこそ、一人の時間がほしくて図書室に来ているはずだった。
(今は、自分から先生に話しかけてるなあ)
 誰かと関わるのが嫌だというわけではないのに、どうしてか結子の言葉が苦手に感じる。
 理由が見えない。矛盾にも思えて、あかりは、自分のことが分からなくなってきそうだった。
「いつも近い距離にいるから、余計に悪い点が見えちゃって、苦手なんだって気づいちゃったのかもしれないね」
「距離を置いた方がいいんですか」
 どうすればいいのか答えがほしくて、あかりは問いかける。
 迫田は考えて、首をかしげながら笑った。
「どうかなあ。それは二人の関係性によるよ。まあ、確かに、時間や距離を置くことで仲良くなれるというパターンも、ないわけではないから……。何とも言えないね」
「え……?」
 予想していなかった答えに、あかりは聞き返す。
 迫田は諭すような口調で言った。
「今は苦手でも、例えば卒業した後の同窓会で意気投合するなんてこともあります。その時には人生経験を積んで、ものの見方も変わっているから」
「なるほど」
 一理ある言葉だった。
「何も、無理をする必要はないよ。この間、僕が変な話をしちゃったのが、悪かったかな」
「そんなことないです」
「ありがとう」
 お礼を言うべきはこちらだと思いながら、あかりは笑った。

「あかり、今日は機嫌良いよね」
「そうかな……?」
 移動教室の途中で結子に指摘され、あかりは首をかしげる。
 小さく芽生えた苦手意識は健在だったが、彼女を嫌いになったわけではなかった。
(いつか、苦手じゃなくなるかも知れないし、焦らないでいよう)
 あかりなりに考えた結果だった。
「機嫌良いとか、分かりやすいかな」
「いや、分かりやすくはないけど、よく笑ってるもん」
 彼女は朗らかだった。
 花の咲くような笑顔を好ましいと思いながら、あかりは図書室の方に顔を向ける。
(私、機嫌良さそうに見えるんだ)
 何となく、自分の落ち着ける場所を見つけたからだという気はしていた。



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