恋も友も夕焼けも 1


 いつも図書室のカウンターにいるのは知っていた。
 だが、学校司書か何かだろうと思うだけで気に留めていなかった。
「あかり、どこか行くの?」
「図書室行くんだ。ごめんね」
「ええ、また?! しょうがないなー。……じゃあね、バイバイ」
「また明日」
 すこしふてくされていた友人の後姿を見送って、あかりは南校舎の三階を目指す。
 鞄の中には、昨日借りた本が数冊入っていた。
(今日は、続きを読もう)
 ハーフアップの黒髪が揺れる。
 春風のにおいがした。
(同じクラスになるとは思わなかったなあ)
 友人の表情を思い出す。
 これから毎日、一緒に帰ろうと誘われるのかと思うと、少し憂鬱でもあった。
 やかましい噂話は好かないし、何より習慣と趣味を邪魔されるのは苦手である。
(まあ、あと一年だけだし、いいか)
 頃は四月。あかりは高校三年生であった。

 放課後の図書室。
 人は少なく、それぞれが思い思いに過ごしている。
 オレンジ色の空間で読書するのが、たまらなく好きだった。
(続き……)
 読む本を選んで、窓際の暖かな席に腰かける。
 誰にも邪魔されず、一人になれる空間。
 喧噪の高校生活の中で、あかりが唯一落ち着ける場所だった。
 視界の端を、ベストのセーターを着た男性が通って行く。
(……先生か)
 ちらりとその姿を目で追って、あかりは本に目を落とす。
 すぐに、物語へと引き込まれていった。
金谷かなやさん」
「……。……あっ、はい」
 呼ばれたのが自分の名前だとは、とっさに気がつかなかった。
 目の前に立っているのは、白髪の混じった男性。
 着ている服で、いつも図書室にいる教師であると判断する。
「集中していたのに、すみませんね。そろそろ下校時刻ですが……。借りていきますか?」
「お願いします」
 あかりは本を差し出した。
 カウンターまでついていきながら、あかりは窓の外に目をやる。
 気がつけば、日が落ち始めていた。
 薄暗く人気のない校舎は、嫌いではなかった。
(名前、知ってるんだ)
 しょっちゅう本を借りているから、名前を覚えられても不思議ではない。
 ただ、教師に話しかけられるということ自体があまりなかったから、驚きであった。
(担任くらいしか、接点ないもんな)
 あまり、教師と関わるのは好きではない。
 好きではないゆえに、勉強だけは人一倍やっていた。
 そうすると、何となく皆が一目置きながら敬遠してくれるので、一人の時間がないと困るあかりとしては、ありがたかった。
(いじめのない学校でよかった)
 本のバーコードを読み込む音が響く。どうやら、図書室にはもう他に誰もいないらしい。
 教師の節くれだった手が、どうしてかあかりの印象に残った。
(……大きい手だな)
「はい。それじゃあ、気をつけてくださいね」
 渡された本を、あかりは鞄にしまう。
 鞄を肩にかけながら、軽く会釈した。
「さようなら」
「はい、さようなら」
 笑うと目じりにしわができる。 
 担任以外の教師と話すことが久しぶりだったからか、ずいぶんと新鮮だった。

「ただいま」
 玄関を開けると、ちょうど妹が帰ってきたところのようだった。
「お帰りなさいです!」
「ただいま。ひなたも、お帰り」
「ただいまです。そうだ、お姉ちゃん、聞いてください! 本日は迫田さこた先生が……」
 機関銃のように話し続けるひなたの声を適当に聞き流しながら、あかりは靴を揃える。
 ついでに、ひなたが脱ぎ散らかした靴も揃えておいた。
「好きだね、その先生」
「はい! 大好きです! お姉ちゃんは好きな先生っていないのですか?」
「……残念ながら」
 仲良くなっても仕方がないから、教師とあまり関わることはない。
 そもそも、教師というものに対して、無関心にも酷似した感情しか抱いていなかった。
(嫌いでは、ないんだけど)
 ただ、関わろうとはなかなか思わないだけのことである。
 もったいない過ごし方をしていると、将来思うのだろうなという予感はあったが、だからと言ってどうしようもなかった。
 ひなたとは正反対であることを自覚しながら、あかりは着替えることにした。

 休み時間になるたび、友人は色々な話題を提供してくれる。
 おいしいお菓子を見つけたから試しただの、この間行った店の店員が面白かっただの、興味深い話も多い。
 だがその反面、どの教師が好かない、あの人とは合わないといった噂話も多分に含まれていた。
 表情が目まぐるしく動き、また感情の上がり下がりも激しい。
 聞くともなしに聞きながら、これを女子高生らしいというのだろうと、あかりは半ば感心さえしていた。
「そんで、迫田先生が駅前にいてさ……。びっくりして逃げちゃったんだけどね」
「そうなんだ」
 逃げる必要性が分からないと思いながら、あえて口には出さなかった。
 どこかで聞いたことのある名前だと気づき、あかりは考える。
(迫田先生……?)
「やっぱりあかり、迫田先生と仲良いの?」
 ひなたが好きな教師の名前であるような気がした。
結子ゆうこ、迫田先生って……?」
 ひなたの学校の教師を、なぜこの友人が知っているのだろう。
 それともこの学校に同姓の教師がいるのだろうか。
 結子はあかりの顔を二度見すると、わざとらしく驚いた。
「え?! あかり、毎日図書室行ってるじゃん! 図書の先生だよ!」
「……あ。あの先生か」
 昨日話しかけてきた教師しか思い浮かばなかった。
 どうやら、彼の人の名は迫田というらしい。
(何か、嫌だな)
 妹が熱を上げている教師と同じ名字であったことに、あかりはうすら寒さを覚えた。
 姉妹で同じ名字の男性と関わりを持つなど、何処かの物語にありそうなシチュエーションだ。
 あいにくひなたのように、特別好きな先生というわけでもないが、その偶然が妙に引っかかった。
(まあ、お互い、名前しか知らないし)
 それ以上、何かを知ろうとも思っていない。
 この話は聞かなかったことにしようと決めた。

 窓際の席はよく日がさす。
 放課後、いつものように結子の誘いを断って、あかりは図書室で本を読んでいた。
(受験勉強、まだみんな始めてないな)
 夏以降は恐らく、この部屋に来る生徒も多くなるだろう。
 そして、あかり自身も勉強をしなくてはならなくなる。
 勉強自体は嫌いでないものの、この空間に来られなくなるのは寂しかった。
(あと一年か)
 あっという間に過ぎてしまいそうだからこそ、今ぐらいは好きに過ごしたい。
 たとえ友人に嫌な顔をされたとしても、静かな落ち着く空間に一人で浸っていたかった。
「そろそろ、下校時刻ですよ」
 銀縁の眼鏡に、ベストのセーター。
 あかりより少しだけ背の高い、白髪交じりの男性教師。
 改めて観察し、名前を知ったのだと思い出して、落ち着かない気持ちになる。
「すみません。今、出ます」
 テリトリーに踏み込まれて、一人の時間は終わりを告げる。
 迫田が悪いわけではないはずなのに、何故かあかりはこの空間から早く逃げたくなっていた。
(帰らなきゃ)
 自分の心に急き立てられる。何故焦っているのか、答えが見当たらない。
 一人の空間に入ってこられるから、侵入者に対処できなくて戸惑ってしまっているのかもしれない。
 随分と閉じた勝手な言い分だ。
「この本は、返却で」
「はい、わかりました。こちらは貸出ですね」
「お願いします」
「金谷さん、あの席ですが、もし西日がまぶしいようだったらカーテンを閉めてもいいですからね」
 事務的な会話の中に、投げ込まれた一言。
 世間話をされているのだと気づくのに、数秒かかってしまった。
「……ありがとうございます。でも、暖かいのでそのままでいいです」
「そうですか。……はい、ご存じとは思いますが、来週十八日までの貸出期限です」
「ありがとうございました」
「気をつけて帰ってくださいね」
 人のよさそうな笑顔が印象的だった。
「さようなら」
 足早に図書室を去りながら、あかりは窓の外を見る。
 部活帰りらしい生徒が、校門へ向かっていた。
(今まで話しかけてくることなんてなかったのに、何で急に話しかけてきたんだろう……)
 大したことではないのかもしれないが、調子が狂う。
 周囲がにぎやかな人物で構成されているから、ああいった穏やかな調子での世間話に慣れていないのかもしれない。
(昨日もだった。また、話しかけてくるのかな)
 明日も明後日も、話しかけてくるのかもしれない。そう考えて、急に面倒になってしまった。
 もし明日もであれば、放課後を過ごす場所を変えよう。
 午後五時を知らせる曲が、近くの小学校から流れ出していた。

 図書室に来ている生徒は少なかった。
 あかりの他には二名ほど、寝ている生徒がいるだけである。
 いつも静かな空間ではあるが、中でも今日はラッキーデーだとあかりは考えていた。
「金谷さん」
「はい」
 反射的に答え、本から顔を上げる。
 聞きなれた穏やかな声が、妙に耳についた。
「非常に申し訳ないのですが、今、少しだけお手伝いしていただけますか」
 迫田が嫌なわけでも、物語を中断されて不快なわけでもなかったが、心の中にもやもやとしたものが渦巻いていた。
 本にしおりを挟みながら、あかりはそろそろと立ち上がる。
(……目をつけられた?)
 明日から、図書室に来るのはやめよう。小さくため息をついてそう思う。
 迫田に悪気は一切ないことは分かっていたが、図書室はあかりにとって落ち着ける場所でなくなりつつあるようだった。
「お手伝いですか」
「ああ、忙しいのであれば、大丈夫です」
「いえ、手伝います」
 教師に手伝えと言われて、断る生徒などいないだろう。
 何より、ここで断ってしまえば後々響くこともあるかもしれない。
「本来であれば図書委員の生徒に手伝ってもらえばいいのですが……。あいにく、本日は休みのようで」
(そう言えば、図書委員とか居たな)
 カウンターの椅子に、一人か二人、生徒が座っているのを見かけたことがあったのをあかりは今思い出した。
 だが往々にして、迫田ばかりがカウンターに座っているように思う。
(サボり?)
 予感はしたが、口には出さず、代わりに問いかけた。
「何の手伝いですか?」
「新しい本が届いたので、書棚に並べるのを手伝ってほしいんです」
「分かりました」
 軍手を渡されて、あかりは台車を押す。
 ぴかぴかと光る本は、宝の山のように見えた。
「これは外国文学ですので……」
「向こうの棚ですね。あのシリーズの新刊でしょう。順番に沿って並べたらいいんですよね」
 指示を出される前に答えたあかりに、迫田は目を見開き、そのまま笑った。
 目じりに深くしわが刻まれる。
「その通りです。さすがですね」
「……いえ」
 認められてむずがゆい気持ちになりながら、あかりは台車を押して外国文学のコーナーへ向かう。
 少し前に、読み漁っていたシリーズだったが、読破してしまったので最近は手をつけなくなっていた。
(また読み返そうかなあ……)
 柄にもなくわくわくしていることを自覚して、あかりは顔を引き締める。
 並べる途中で、巻数の順序がおかしいものを揃え直した。
 空の台車を押して戻ると、迫田は児童文学のコーナーに本を並べている途中だった。
 著者名がかすかに見えて、あかりは立ち止まる。
「あ……」
「どうかしましたか」
「いえ。この人、新刊ですか」
 今読みふけっている作品の著者であった。
 見たことのないタイトルに興味をひかれる。
「そうです。借りるのであれば、後で持ってきてくださいね」
「はい」
 うなずいて、あかりは次の台車に手をかけた。
 次は古典。その次は少し堅めの文学と、次々本を並べていく。
「ありがとうございます。助かりました」
 およそ一時間程度で、新しい本は全て棚に並んだ。
 本を読む時間が少なくなってしまったが、新刊の場所が分かって少し得した気分でもある。
「いえ」
 短く返して、あかりは頭を下げた。
 迫田の笑顔のせいか落ち着かず、うつむきながら、あかりは元いた席に戻る。
(図書委員、サボらないでほしかったな)
 そうすれば、あかりが目をつけられることもなかっただろう。
 自意識過剰なのかもしれないが、少なくとも自分の存在を知られているこの状況が、気まずかった。
 ともかく、新刊だけは借りて帰ろうと決めていた。

 いつもより早く、日が落ちたような気がした。
 あかりはカウンターに新刊と、返却する本を持っていく。
 迫田の方が先に口を開いた。
「この作者が好きなのですか?」
「……まあ……」
 笑顔で話しかけてくるのが、どうしてか苛立たしくさえあった。
 自分の口から出てきた言葉の冷たさに驚いて、あかりははっと口をつぐむ。
 迫田に悪気はない。自分がただ、関わるのを苦手にしているだけなのだ。
 あまり邪険にするのも、気を悪くさせるような気がして、言いつくろった。
「その、児童文学ですから、あまり言いたくはないんですが」
「何を言っているんですか。この人は現代児童文学の大家です。恥ずかしくなんてありません」
 あかりの態度をさして気にしていないらしい迫田に、ほっと安心した。
 本のバーコードを読み込みながら、迫田は続ける。
「大学に行けば、児童文学だけでなく、絵本の研究をしている人もいますよ。どれも、素晴らしい文学だと思います」
「そうですね……」
 大学、という言葉にあかりは思いを巡らせる。
 来年にはもうここにいない。だが、そのことにはあまり感慨を抱けそうになかった。
(……楽しかったのかな、高校)
 何故か、そんな疑問が浮かんくる。
 高校生活そのものにあまり深入りをしていなかったせいか、想い出らしい想い出がないようにも思えた。
「違う作家にはなりますが、この人の本なども近い雰囲気がありますね」
 迫田の言葉に、あかりはカウンターへと目を落とす。
 少し分厚い、有名な児童文学作家の本が出してあった。
「あ……。名前は知ってます」
 迫田の意図は読めなかったが、興味をひかれて表紙を見つめる。
 気になってはいたが、読んだことのない作品だった。
「食わず嫌いでしたか?」
「分厚すぎるからちょっと、と思って」
「短編集もありますよ」
 同じくらいの厚さの本。中にいくつか読みきりの作品が掲載してあるらしかった。
 迫田はにこにこと笑っている。恐らく、善意で勧めてくれているのだろうとあかりは判断した。
 気になっていた作家であるのも手伝って、あかりはうなずく。
「それなら読めるかな……」
「借りていきますか?」
「はい。お願いします」
 借りた本は二冊になった。
 少し重くなった鞄を抱えながら、あかりは帰路についた。



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