憧れ以上恋愛未満 3


 どうやらひなたの感情は恋に転じつつあるようだと迫田は観察していた。
(しばらく待つか)
 顔を真っ赤にして目を泳がせていたところを見ると、どうやら迫田を恋愛対象として意識し始めたものらしい。
(かわいらしい)
 高校生にしては少々幼い反応かも知れないが、悪くはなかった。
 最近会いに来ないのは、感情の整理が上手く行かないから今は会うのを避けているというところだろう。
(平気そうな振りをするのが、またなあ)
 口元を抑えて、くすくすと笑う。
 がんばって平静を装っている姿を見ると、どうしたってつつきたくなる。
 予想以上に、はまりこんでしまっているらしいと迫田は自分を冷静に観察した。
「全くなあ」
 苦笑し、一人小さくつぶやく。
 机の上に置かれた携帯灰皿を眺めながら、大きく伸びをした。
(……何でこんな必死に)
 放っておけば、お互い淡い想いだけで終わったはずなのに。
 そうは思うが、ひなたが自分以外の誰かに好意を寄せるようになるというのは、耐えられそうにもなかった。
 あれだけ、自分のことできゃあきゃあ騒ぐくらい、好きでいてくれたというのに。
(逃がさない)
 黒川に負けるつもりはない。そう考えたところで、迫田は自分の思考にあきれかえりそうになった。
(何で高校生にライバル心燃やしてるんだ……)
 頭から、迫田にだけ冷たい目をする男子を追い出して、理科室の外に視線を投げる。
 噂をすればではないが、一緒に下校している黒川とひなたの姿が目に入った。
「……ふうん」
 予想の範疇ではある。
 痛む心さえ愛でるように、迫田は灰皿と煙草を持って外に向かった。

 理科室の報告係はひたすらに避けて、ひなたは黒川と下校するようになっていた。
 話題の上から、少しずつ迫田のことが減っていた。
 黒川はどうやらそのことに気づいたらしく、ある日の放課後ひなたに告げた。
「金谷、何か最近変」
「わたくしは前から変です」
「自覚してたんだ」
「黒川君結構ひどいのです、わたくしのことがお嫌いですか」
「……。ここ一週間、先生を避けてるよね」
 はっきりと指摘され、ひなたはかろうじて苦笑いを抑える。
 首を振り、真剣な瞳で語った。
「いいえ、わたくし実は忍者の末裔ですので気配を消しているのです」
「何かあったの」
「伊賀と甲賀の戦いなどが少々ございました」
「……話せないなら良いよ」
 要領を得ないひなたの話を、黒川は穏やかに受け流す。
「俺にとってはいいことだから別に、いい」
「……あの……」
 焦った様子で何か言おうとするひなたを、黒川は笑って制した。
「違う。別に、返事を急かしてるんじゃないよ」
 ここまで避ける必要もなかったような気がする、と改めてひなたは思っていた。
 それでも頭の中には理科室での出来事や、言いかけて途中になっていた言葉がしょっちゅう蘇る。
 その度に頭がかっと熱くなるような感覚に襲われているし、最近では迫田の姿を見かけるだけでも動悸が激しくなっていた。
 前々から重症ではあったが、ここ最近はそれがよりひどくなっていっているようである。
(……からかわれただけなのです)
 ただちょっと気まぐれでからかわれただけなのだと思う。
 言いかけた言葉だって、あくまで忠告というものであって、そこから何かに結びつくようなものではないはずだ。
 そうでなくてはおかしい。大体、万が一迫田の側に好意などというものがあれば、一週間放っておかれて何のアクションも起こさないというのもおかしな気がする。
(そう思っておりますのに)
 それでもひなたの中には期待するような気持ちが少し生まれていた。
 同時に、自分の中から止めどなくあふれ出す好意のことも自覚していた。
 大きく肩で息をつき、ひなたは珍しく真剣なまなざしで黒川の顔を見つめる。
「何?」
「いいえ、何でもありません」
『困ったことに、わたくしは先生が好きなようなのです』
 言ってしまえば負けのような気がしていた。自分の気持ちは分かり切っていたけれど、「ファン」の域を超えて好きになるのはいけないことであるように思えた。
(先生なのですよ)
 いくつ離れているかは充分すぎるほど知っている。二十五だ。
 自分は、先生の子供でもおかしくない。そんな相手を好きになって、どうしようというのだろう。
 それでも、とまらないこの好意は明らかに、恋の形を作っていた。
 過度に期待などしたくないのに、いつの間にやら自分の気持ちは「ファン」の域を超えてどこか遠くへ向かっている。
 それを助長させているのは、他でもない本人だ。
(からかっている……のですよね)
 きっとそうだ。
『からかいじゃねえっつったらどうする?』
 あの言葉の真意は、何だったのだろうと思う自分もどこかにいた。
『中には、好かれている内に相手を――』
「え」
 暖かい感触が自分の手に重ねられて、ひなたは目を見開いた。
 重なっているのは、黒川の手のひら。
「手、冷えてる」
 同級生の男子より、頭一つ分だけ抜けている彼。
 その手のひらも大きくて、やはり女性のものとは全く違う作りをしていた。
「わたくし冷え性なのです。……あの、これでは黒川くんの手を冷やしてしまいますよ」
「いいよ」
 どうしてか、どきどきはしなかった。
 ただ手のあたたかさだけが心地よい。それなのに、心の中では冷たい風が吹いていた。罪悪感にも似た、落ちつかなさ。
(先生)
 どうしてファンのままでいられなくなってしまったのだろう。
 ここまで好きになる必要性が果たしてあったのだろうか。
 そんなことをつらつらと考えてしまう。
「金谷、今何考えてる?」
「……」
 「先生のことです」と答えるのはあまりにも申し訳なくてひなたは黙り込んだ。
「余計なこと考えないで猪突猛進に向かっていく金谷の方が好きだよ」
 黒川は寂しそうに笑って、手をどける。
 ずん、と重たい空気が胸の中に入ってくるような気がしていた。
「ありがとう」
 今までのように、まっすぐ向き合ってまっすぐ走っていけていたら良かった。「ファン」の限界量を超えてしまっているのは理解しているから、会いたくないのだ。
 会うのが怖い。これ以上、頭の中を迫田で埋めて、コントロールを奪われてしまうのは嫌だった。
(困ります……)
 以前は凝視していたはずの迫田の姿を、まっすぐ見つめられなくなった。
 以前なら傾聴していたはずの迫田の声が、ずいぶんとくすぐったくなっていた。
 以前なら何度も繰り返していたはずの「好き」がなかなか言えなくなっていた。
 自覚すればするほどに、気持ちは加速していく。たくさんの出来事が思い返されて、妙な期待までもが生まれてくる。
(先生のことしか考えられないなど……)
 何故、あんなからかうような真似をしたのか。真意が見えなくて、近づきたくなかった。
 期待して近づいて、裏切られるのは嫌だった。
 それならいっそ、ファンのままでいる方がいい。素敵だ、かっこいい、とひたすら騒いでいる方が良かった。
「金谷、聞いていい?」
「はい」
「……金谷は、先生の『ファン』なんだよね?」
「今更ではありませんか黒川くん」
 肯定しながらも、心の隅に寂しさのようなものが芽生えていた。
 自分はただの「ファン」だと分かりきっていて、そう思おうとしているのに、人に言われてしまうと違和感を覚える。
 黒川は少し悲しそうな顔で続けた。
「『ファン』ってだけで、それ以上はないって本当に言える?」
「……」
 見透かされたような気がしてひなたは口籠もる。
(やはり、いけないことですよね)
 抑えておかないと、いずれあらぬ方向へと向かってしまうのではないか。以前は全く抱かなかった危惧が、ひなたの心の隅にあった。
 たかだかちょっとからかわれたぐらいでこうも頭の中がいっぱいになってしまうのだ。きっとこのまま好きでいつづけたら、自分がどうなってしまうか分からない。
 恋心の方の「好き」はしまっておかなければならない。自覚したところで告げるわけにはいかない。あくまで自分は「ファン」で、応援隊長でありつづけなければならない。
(本人にご迷惑をかけてしまいます)
 ただ、そう思うたび、心のどこかがちりちりと焦げ付いていくような気もしていた。
 同時にフラッシュバックする言葉の数々。しかし余計な期待をして裏切られたくはない。頭の中から追い払うことにしていた。
 好きになってはいけないのだ。ひなたがそう改めて決心したところで、黒川はため息をついた。
「無言かー。……『言えます』って言ってほしかった」
「黒川くん」
「嫌いだから避けてるんだと思ったのに……逆っぽいよね、今の金谷」
 とても苦しそうな顔で黒川は笑っていた。
 
 もらったプレゼントを握りしめながら、迫田は机の上で手を組み合わせていた。
(早く来いよ)
 しばらくの間は待つつもりでいたが、予想外に自分は焦っているらしい。
 もどかしくてたまらないのだ。
(……おかしいな)
 もう少し余裕を持っているつもりではいた。
 だが予想以上に、黒川と二人下校していた姿が頭に焼き付いているらしい。
(……)
 待っていれば、きっと来るだろう。
 ひなたが自分で、自分自身の気持ちに気づいてさえくれれば、扉を開けて飛び込んでくるだろうと予想は出来た。
「早く自覚しろ」
 迫田から見て、ひなたの気持ちは明白だった。
 だからそれだけに、本人に自覚がないことが非常にもどかしく、歯がゆい。
 気持ちを自覚させる手助けをして、早く自分の傍に来るよう仕向けたくてたまらなかった。
(ダメだな)
 いつの間にこんな独占欲が強くなっていたのか自分に聞きたかった。
 徐々にかき消えてゆく余裕を自覚しながら、迫田は大きく息をつく。
 扉の開く瞬間を、今か今かと待ちわびていた。



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