憧れ以上恋愛未満 4


 掃除終了の報告係は、さすがに毎日毎日避けられるわけもなかった。
 久しぶりに理科準備室に顔を出すと、迫田は一瞬驚いたあと、勝ち誇ったかのような顔で笑った。
「お前さん案外臆病だな」
 見透かされたような気がして、ひなたはごまかすように語ってみせる。
「臆病? まさかまさか。先生はわたくしを分かっていませんなー」
「……お前、この部屋入ってきたときの心底困りきった顔一度鏡で見てみるか?」
「何ですって、わたくしとしたことが。さ……いの先生にそんな顔を見せるなんて」
「さい、何?」
「さい……最高の?」
「あれー、最愛のって言ってくんないの?」
「はは、先を越されましたね! さい、最愛の先生です! 失礼いたしました!」
 心臓がねじきれそうだった。この間までなら何度だって言っていたはずの言葉なのに、今はどうしてかためらわれる。
 あまり軽々しく口にしたくはなかった。
 そして口にしたとたん、消え入りたくなるような恥ずかしさで迫田の方が見られなくなっていた。
「……やっぱりな。それを臆病って言うんだ」
「わ、分かっておりませんなあ、先生。こんな堂々とした臆病者が居たらお目にかかりたいのです」
 顔が紅潮しているのを感じながら、ひなたはかろうじて笑ってみせる。
 迫田は不敵な表情を見せて立ち上がり、ゆっくりとひなたの方へと近寄ってきた。
 一歩ずつ後ずさりながら、ひなたは視線を泳がせる。
「決して、えー、その、臆病などでは……」
 すっぽりと迫田の影の中に入ってしまった。あまり至近距離にいるものだからこの間のことがフラッシュバックして、ひなたはだんだんとしどろもどろになっていく。
 ぽんぽんと、頭がなでられた。 
「な……」
「まあそんだけ意識してもらえたんなら正解だったわ」
(何なのですか)
 にやにやと笑う姿に、ひなたは初めて迫田への怒りを覚えた。
「で、だ。お前黒川とつきあってんのか」
「へ」
「なんつー間抜けな顔してんだ」
 逆光のせいか迫田の表情は窺えないが、どうやら苦笑しているようだとひなたは判断した。
 しばらくの間、沈黙が続く。耐えかねて、ひなたは困ったように語り始めた。
「何ともお答えしづらい、半端な関係なのです。わたくし、告白されたはいいがどう答えたもんかと迷い迷って何にも言えず……。結局つきあってんだかつきあってないんだかよく分からないままなのですよ」
「……ほう」
「とても良い方なのです、私も決して嫌いなどではありません。いい方なのですけれどわたくし、それに応えて良いものか……。なまじ、先生を好きすぎるものですから」
「それを聞いて安心した」
 迫田は満足したようににやりと笑う。
 ひなたははっとして目を見開いた。そのまま一気に後ずさり、慌てたようにして弁解する。
「こ、これはあくまでファンとしてなのですよ?! 関係ないのです、断じて恋心ではありません!」
 ひなたが言いきった後、大きな間があった。迫田はあきらめとも何ともつかない顔で、大きく息をつく。
「何でそこまで頑なに否定する」
 迫田の問いかけに答える言葉を持たず、ただひなたはうつむいて黙り込んだ。
 理科室でのこと、言いかけて中断された言葉。今までのあれこれがひなたの頭の中を駆けめぐってゆく。
「ご、ご気分を害されてはと……。何で近づいてくるのですか先生」
「逆だ、何故遠ざかる」
「おおっと何ですか? 今度はどこぞの少女漫画の真似ですか? いやあホント先生には頭が……。……あの……わたくしこれでは逃げ場が……」
「逃がすつもりないけど?」
 冗談のような台詞をどうしてそんな真剣な表情で言うのかと問うてみたい。
 本当に逃げ場を失ってしまったかのような錯覚にひなたはとらわれていた。
 ぞくりと背中が粟立つ。
 気づけば壁際まで追いつめられていることに気づいたのはそのあとだった。
「ホントに、あの、違うのです、口が滑ったと申しますか言葉の綾と言いますか」
「お前な」
「はい」
 見上げた先にある表情は、悲しそうだった。自分の放った言葉のせいだと気づいた瞬間、ひなたはいい知れない不安感に襲われる。
 続きの言葉を探す間に、迫田の表情は苦笑へと変わった。
「……俺の気持ちも考えろ……」
「え?」
 予想外の言葉が吐き出されて、ひなたは思わずぽかんとする。
「俺がどんだけ待ってたと思ってんだ」
 理解出来なかったのか、ひなたは首をかしげた。
 嘆息する迫田の様子を、不思議そうに眺めている。
(待たされたあげくに、まだ無自覚なのか)
 全く姿を見られないだけでもつらかったというのに、当の本人はこちらから見ても明らかな自身の気持ちをいまだ認めようとしない。
(……)
 もどかしく、歯がゆかった。
 小さくため息をつき、迫田はまっすぐひなたを見据える。
(先に降参しよう)
 敵わないなと思いながら、迫田は言い含めるように語り始めた。
「自分のこと、ずっと気づかれてないと思ってただろ」
「それは……ご本人さまに気づかれぬように活動してきたつもりでありますし」
 だからこの間、迫田に「入学以来」と指摘されてひなたは非常に焦った。
 肯定したひなたに苦笑すると、迫田はこの間の続きの言葉をつぶやいた。
「好意なんてな、隠し通せるもんじゃねえんだよ。そんで、そういう目で見られている内にこっちの心情が変化して、気になり始めることだってある。俺みたいにだ」
「え?」
 ぽろぽろと吐き出された言葉。
 真意を確かめたいものがあって思わずひなたは迫田の顔を見上げる。
 瞳に映っている感情は、自分が迫田を追っているときのものとよく似ているような気がした。言うべき言葉を失って口籠もり、ひなたは顔を紅潮させる。
「俺も、気になるから見てたんだよ。だから黒川とつるむようになったとき驚いた」
 だから、つい声をかけた。
 嫉妬したのだと迫田が分かったのは、ひなたの口から「ファン」という言葉が出てきたときだった。
 恋愛未満なのだとはっきり言われ、心の中は波立った。
「俺だってこんなつもりじゃなかったんだよ」
 自分を見てくれていると思っていたから安心していた。しかし隣に立つ男の姿を見て、この上なく動揺した。
 そのあとにやっと、どうやら自分が焦がれているらしいことに気づいた。
「先生」
「そう、それも邪魔でな、何とも出来なかったんだ」
 迫田は「先生」という言葉を指して言う。
 ひなたは何も意味のある言葉を言えないまま、ただ迫田の独白を頭に流し込んでいく。
「だがびびってお前を取られる方が嫌だわ、正直それだけは勘弁して欲しい」
 吐き出された言葉は、どう聞いても自分への好意を明らかにするものであるようだった。
「『ファンだ』ってごまかしてないで、ちゃんと俺自身と向き合ってくれ」
 動揺と戸惑いが先に来て、何も考えられないままひなたは口元を覆う。
「……自覚してくれ、好きだって」
 戸惑っているらしく、ひなたは何も言おうとしない。迫田は首を振って続ける。
「黒川にお前はやれん」
「……」
 長い間置いておかれた上、変わらず自分の気持ちを認めようとしないひなたに、迫田は少し焦っていた。
 まだ待てると思っていたが、どうやら甘かったらしい。 
 目の前で自分への好意を否定する言葉ばかり吐かれて、少しばかり心も痛かった。
「わたくしは、わたくしはあくまで」
 抵抗するかのように首を振るひなたに苛立ったのか、迫田はどん、と音をさせて壁に手をついた。
 驚いて黙り込むひなたに、小さくため息をつく。
「悪いことは言わん、素直にそのまま俺を好きになってくれ。頼むから」
 弱り切ったような顔で懇願される。
 その瞳の奥に映る感情が愛しかった。
「……わたくしは」
 目がそらせない。そのまま、瞳が近づいてくる。
 言いかけた言葉が迫田に吸い込まれたのだと気づくのに十数秒かかった。
 唇が離れてようやく、自分が何をされたのか気づく。空気が足りなくて、迫田の腕の中で溶けてしまいそうだった。
「まだ自分の気持ちが分からないなら、いくらでも教えてやる」
 唇を親指でゆっくりなぞられて、背中がぞくりとした。
 あまりに急な出来事に、頭の中が混乱している。心臓が壊れそうなほどに動いていた。
(……でも)
 不思議と暖かい気持ちになっているような気もしていた。
 一度大きく息をつく。ようやっと、ひなたは気持ちを吐き出した。
「わたくしは、確かに先生が大好きです、この上なく、けれど」
「けれど、何?」
「先生を好きになるのは、いけないことなのです……」
 つぶやいていたのは、ずっとひなたに心の奥で引っかかっていた感情だった。
 迫田は意外そうな表情で目を瞬かせたあと、苦笑いをして息をつく。
「そんな理由で他のやつの所に行かれちゃかなわん」
「そんな、ではないのです。もしこれでご迷惑をおかけすることにでもなれば」
「ガキか」
 はっきりとした言い方にひなたは一瞬言葉を失う。
 今までずっとぐるぐると心の中で渦巻いていたものがあっさりと両断された気分だった。
 ぽかんとした顔で見上げていると、迫田は弱り切った顔で頭に手をやる。
「迷惑ぐらいいくらでもかけろ。バレても責任は俺が取る。……どっちが年上だと思ってんだ、それくらい俺にさせろ」
 苦笑しながら、しかしはっきりと芯のある言葉を言い切る迫田に、ひなたは思わず見とれてしまった。
 どこか心の奥で「敵わない」という言葉が聞こえてきたようでもあった。
「それくらいいくらでもするから。……するから、頼むから、ちゃんと、俺だけを好きでいろ」
 懇願なのか、確かめているのか分からない表情だった。
 まっすぐ自分に届く言葉が愛しくて、ひなたは改めて自分の気持ちを自覚する。
「……今更なのです」
 迫田京輔。その全てが好きで、ずっと目で追っていたのだ。
 ファンとして押さえ込んでいた気持ちのふたは全て、本人が外してしまった。ならば、恐れていても仕方がない。 
 腕に身を預けながら、ひなたは小さく頷いた。
 



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