憧れ以上恋愛未満 2


 翌日。
 書道鞄を持って書道教室へ行く道すがら、ひなたは急にその表情を曇らせ、眉根を寄せた。
「うっ」
 どこから出たのか分からない妙な声を出したあと、ひなたは廊下を引き返す。
(って何故引き返したのですか!)
 向こうに迫田の姿が見えただけだというのに、隠れてしまうなんて全く自分らしくない。
 いつもであればしっかり凝視して、内心きゃあきゃあ言いながら暴れているはずなのに。
(どうしたというのでしょう)
 どうしたもこうしたもないだろうという心の声には、聞こえないふりで対抗した。
『からかいじゃねえっつったらどうする?』
 しかしはっきりと思い出されてしまい、ひなたの顔は朱に染まる。
 予想以上に、ダメージが大きかったらしい。
(あああああああ、もう!)
 ぶんぶんと大きく首を振る。
 大好きなのに、怖かった。その理由が全く見えず、ただ体だけが条件反射のように動いてしまう。
(意味が分かりません)
 大好きなのは以前からずっと変わらない。それなのに今は、どうしてか逃げ出したくてたまらない。
 うるさいほど高鳴る心臓さえ黙ってくれれば、きっとまたいつものように騒げるような気はしていた。
(……これは)
 ダメな方の「好き」だとひなたは気づいていた。
 今まで「ファン」として確かに存在していたはずの好意はゆらゆらと陽炎のように揺れて、形を持たない恋へと移り変わっていくようだった。
(今、先生に会ったら危ないですね)
 心臓はただひたすらに高鳴り続けて、そのうち好意は恋へと変貌を遂げてしまうだろう。
 それはいけないことだ。相手は「先生」。本気で好きになってはいけない、こちらはあくまでファンでいるしかない存在なのだ。
 迫田の姿が見えなくなったのを確認してから再び書道教室へと向かう。安堵と寂しさがいりまじったような感情が渦を巻いていた。

(『また明日』って、来ねえじゃねえか)
 掃除終了の報告を、ひなた以外の生徒から受けながら迫田は嘆息した。
 ひなたの「また明日」を聞いてからそろそろ三日が経つ。
 むろん、理科室の掃除担当なのだから扉を開ければいるだろうことは分かっていた。しかし自分から迎えに行くのはさすがにためらわれる。
(……分かってねえな)
 扉が閉まる音を聞きながら、迫田は天井を見上げた。
(……)
 ひなたが迫田を好いているらしいというのは、有名な話ではあった。
 迫田自身も、入学当初から視線は感じていたから、それとなく気にはしていた。
 だが自分の前では微塵もそんなそぶりは見せず、当然ながらただ静かに授業を受けているだけだったし、廊下ですれ違うときも挨拶をされるくらいだった。
(二度か)
 たまたま、自分のことを話している現場に出くわしたことがある。
 普段の様子とはうって変わって楽しそうにはしゃぎ、騒いでいる姿を見て純粋に可愛いと思えた。
 それ以来、少しずつ意識に上がってくるようになって、そのうち他の生徒とは一線を画し始めた。
 むろん、淡い思いのままにしておこうという心づもりであった。
(……うぬぼれだったか)
 長年の勘で、てっきり本気で好かれているものだと思っていたのだが、どうやら本当に「ファン」というだけらしい。
 仲よさげに男子生徒と歩いている姿も見かけたし、結局本人にとってはそれだけなのだろう。
(黒川)
 考えると苛立った。あからさまな嫉妬だと分かる。
 自分のものだと思っていたものが、他に取られるとなるとやはりおもしろくはない。
 どうやら本気になってしまっているらしいと苦笑し、空に視線を投げる。
(……怖がらせたか?)
 焦るあまり、少々手荒な真似をしてしまったかも知れない。
 少し確認してみよう。迫田は小さく頷いた。

 一度逃げてしまえば、逃げるのは習慣になっていった。
 昼休み、生物の授業、放課後。迫田の姿がちらつくたび、ひなたは避けるようにしてどこかへと姿を消すようになっていた。
 そしてそれが、迫田に分からないわけはなかった。
「最近会わなかったねえ、会長さん」
 ある日、迫田の姿を視界の端で捉えたひなたはいつものように迂回するつもりでいた。
 しかしその迂回ルートには既に迫田の姿があったのである。
「あははは、ほ、本当にお久しぶりですなあ愛しの先生!」
 壁を背にして、偶然だとでもいうように片手を挙げた迫田の仕草があまりにもわざとらしすぎて、ひなたは余計な期待をしてしまいそうだった。
(……まさか待ち伏せされてたのでしょうか)
 やっと捕まえたとでも言いたげな迫田の表情から目をそらし、ひなたは動揺を悟られないよう努めて明るい表情で笑う。
 ゆらゆらとこの間のことを思い返しながら、体が熱くなっていくのをひなたは感じていた。
 顔を紅潮させて目を泳がせているひなたの様子に、迫田は苦笑する。
「あ、そういうことか……何だ心配して損したわ」
「はいぃ?」
 一瞥しただけで全てを悟ったかのような態度の迫田に、ひなたは心外だというような表情を見せる。
「いやー入学以来あんだけきゃーきゃー騒いでくれてたのに最近全く会ってくれないしー、嫌われたのかと思ってな」
「……何故ご存じなのですか」
 迫田ばかり追っていたのは確かだが、それが入学当初からであったことなど、ひなたは一言も口にした覚えがなかった。
「一応言っておくがな、好意なんてそうそう隠せるもんじゃねえんだよ」
(でもそれは)
 少なくとも、先生に抱いてしまってはいけないものであるような気がする。
 そういう「好き」ではないという主張も込めて、ひなたは力強く言い切った。
「わたくしは先生のファンなのです」
 少し、心の奥が傷むような気がした。
「そうやって距離とっても一緒だ」
 迫田はひなたを引き寄せると、身をかがめてひなたの顔を覗き込んだ。
 熱を持ったような瞳が目の前に来て、ひなたは目をそらせないまま黙り込む。言い含めるような口調で迫田は語り始めた。
「周囲だけじゃなく本人にまで漏れてきちまう場合だってある。中にはな、好かれてる内に相手のことを――」
「金谷?」
 救世主の声に、ひなたは弾かれたようにしてかけだした。
「うわああああああ黒川くん!」
「あーあ、いいところで……」
 落胆したような、それでいて楽しそうな調子の声が聞こえてくる。
 ひなたは迫田の方を見られず、黒川の陰に隠れた。
「先生、金谷に何したの」
「おお、怖いなお前さん」
 黒川は迫田をにらみつける。迫田は苦笑して肩をすくめた。
 その様子に苛立ったのか、どこか険のある声で黒川は吐き捨てる。
「セクハラ教師最低」
「はいはい」
 ピリピリしたムードの二人にただならぬものを感じ、ひなたは割って入るように挙手をした。
「あ、あのうそろそろチャイム鳴ります、黒川くん行きましょう」
「うん」
 黒川は素直にひなたの言葉に頷く。
 とげとげしい調子が消えたことに安堵して、ひなたは教室を目指して歩き出した。
 迫田は黒川の後ろ姿を苛立った様子でにらみつけていた。
 



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