血管が浮いた手の甲も、笑うと目尻にできる皺も、ぶっきらぼうな話し方も、その全てが好きで、ずっと目で追っていた。
 だから高らかに、こう宣言したのだ。
金谷かなやひなた、迫田さこた先生ファンクラブ会長として全てを捧げる所存であります!」


憧れ以上恋愛未満


 渡り廊下を行く生徒がちらりちらりと振り返っていった。
 周囲の視線など全く気にしていないひなたは、長い茶髪を縦に揺らして満足げに大きく頷く。
「金谷、注目されてる」
「望むところなのです。ところで黒川くろかわくん、少々報告事項が」
「どうしたの?」
 小さく首をかしげ、黒川はひなたに視線を合わせてやる。
 ひなたは大きく目を見開いて、ぐっと腕に力を込めた。
「先ほど先生がタバコをお吸いになる姿を拝見したのです……ああ、やはりあの武骨な手は凶器であります……あれでタバコを持たれますとわたくし」
 きらきらと目を輝かせて、陶酔したような表情でひなたは語る。
 落ち着きのないその様子を見て黒川はうなずいた。 
「ホントに、先生好きだね」
「ええ、愛してやみませんです」
「そう」
「はっ、勘違いしないでほしいのです。そういう好きではないであります」
 大仰に手を振り、必死に弁解する。
 顔を真っ赤にするひなたに黒川は苦笑した。
「あくまでわたくしはファンというやつです。ご本人の幸せを願うのみ。これっぽっちもお近づきになりたいなどとは考えておりませんです!」
 腰に手を当てて仁王立ち。
 はっきりと言い放ったひなたの耳に、第三者の声が届いた。
「へえ……。誰の話?」
 少ししわがれた低い声。笑いを含んだような調子の言葉にひなたの心が音を立てる。
 心の奥の緊張など微塵も見せず、ひなたはにやりと笑って振り返った。
 そこにいるのは、くたびれたシャツにサンダルという出で立ちの教師。短い髪に手をやって、苦笑しながらひなたを見下ろしている。
「おやおやモノマネ紅白歌合戦並みのタイミングでまさかのご本人さまでありますか……」
「誰が若干暇のある歌手だ」
「バレては仕方ありません」
「聞けよ」
 心臓が早鐘を打ち始めるのを何とか押しとどめ、ひなたは大きく息を吸う。
「白状いたします。わたくし、迫田さこた京輔きょうすけ先生ファンクラブの発足者兼会長なのであります!」
「……。……ほう」
 少し興味をそそられたかのような表情で、迫田は小さく頷いた。
 生物の教材を小脇に抱え、ひなたを見下ろしているその人は、まさに迫田京輔本人である。
 しかし臆することなくむしろ対峙するように、ひなたはまっすぐ迫田を見上げて説明した。
「ファンクラブと言っても会員たった一名そしておつきあいいただくサポートメンバー一名とで計二名と小規模ではあるのですが……心意気は本物なのです。先生の健やかなる教師生活を支援し見守ろうという会であります」
「ふうん、ありがとう」
 不思議そうな顔をしながらも理解はしたようで、迫田は小さく頷いている。
 その様子に満足したひなたは両手を広げて演説のような口調で語り出した。
「いえいえ、普段はひっそりこっそりと隠れ、決してご本人さまに迷惑などかけずに愛でさせていただいておりますので……。どうかお気になさらずとも」
「ひっそりねえ。俺は愛でられるより愛でる方が好きだけどなあ……」
「愛されるよりも愛したいマジで派ですか」
「ガラスの十代」
「少年です」
「そうだっけ」
「では歌っていただきましょう!」
「歌わねえっつの」
 ぽこんと頭を軽くはたかれる。大仰に驚いた仕草をするひなたに、迫田は呆れたようにため息をついた。
 困ったような顔で苦笑する。
「まあ、でも悪口じゃなさそうで安心したわ」
「ええ、むしろ好き好き大好き愛してるって言うだけの会ですからね。そして先生への愛を色んな方に聞いてもらうだけという至極簡素な活動であります」
「お前さんなあ……」
「はい何でしょう」
 衒いも恥じらいもなくストレートに言ってのけるひなた。迫田は呆れたかのような口調で忠告する。
「そういうことをあんまり堂々と言わないの。真実みがなーい」
「ええ? わたくし本気で先生が大好きなのですよ、愛してやまぬのです」
「いやそれお前さんとっても安っぽいから。先生悲しいわ」
「そんなあ」
「まあいいわ。ほれ、チャイム鳴るからそろそろ行かないとまずいぞ」
 ひなたと黒川を促して、迫田は頭に手をやる。
 しまったとでも言うかのような表情で、足早に去っていくひなたの姿を目で追っていた。
「ファン……か……」
 心底困ったかのようなつぶやきは、冬の風に溶けて消える。
 黒川は一瞬振り返り、迫田を冷たく一瞥すると、ひなたの後を追った。
「それだとちょっと困るな」
 迫田は弱ったような表情で笑った。

 つつがなく理科室の掃除が終わったので、ひなたは理科準備室をノックした。
「おお、ファンクラブの会長さん」
「はい、会長の金谷ひなたであります」
「……堂々としてんな」
 当てが外れたのか、迫田は気が抜けたような声で呟いた。
 ひなたは少しばかり勝ち誇ったように笑ってみせる。
「当然なのです。まあ、確かに本人さまに知られているというので気恥ずかしさはありますが……。やましいことではありません」
「ふうん。しかし度胸あるなあ、お前さん」
「何をおっしゃいますか。理科室の掃除ををさぼる方がよっぽど度胸いるのです」
「まあなあ。で、他のやつらは」
「帰られてしまいました」
「早えなおい」
 呆れたような迫田の言葉に、ひなたは困ったような表情で同意する。
「変な風に気を遣われてわたくしとても寂しいのです……。みんなできゃっきゃしたいのです」
「なんだ、俺と二人きりなのに喜んでくれないの?」
 にやにやと、迫田はほおづえをつきながら笑う。目尻に小さな皺が刻まれた。
 一瞬だけどきりと心臓がはねたのを確認し、ひなたは大仰に手を振る。
「い、いえいえ、とても嬉しいです、とってもです、とーってもです!」
「何だそのとってつけた感想。やっぱ愛されてないのかなー俺」
「愛してやみませんですよ? しかし会長たるもの、これくらいで取り乱していてはつとまりませんです」
 そう言いながら、ひなたの心臓は小さな音を立てているようだった。
 普段、ここまでの至近距離で話すことなどはまずない。ひなたにとってこの報告係は幸福な役割だった。
(気を遣ってくれた人たちに感謝なのです)
 迫田はひなたの様子を気にするそぶりもなく、少し何かを考えるようにして斜め上を見上げる。
「……お前さんが取り乱すところってちょっと見てみたいな。常にその調子でいそうだ」
「何をおっしゃいますか。割と簡単に取り乱れますよ」
 大きく両手を広げ、ひなたはおどけてみせる。
 迫田はおもしろいことを聞いたと言うかのような調子でわざとらしく頷いた。
「ほう。照れずに好き好き言える奴でも取り乱れるのか」
「そんな、照れて言われてもお困りになるでしょう」
「いやとても嬉しいですけど」
(何ですと)
 からかいなのか何なのか、意外な言葉を吐かれてひなたは言葉に詰まる。迫田は真意の読みとれない目で笑うだけだった。
(からかってらっしゃる……)
 そう思うものの迫田の言葉にひなたの心臓は波打っている。手に汗をかいているのが自分でも分かった。
「前から思ってたけど、お前さんその態度絶対崩れないからな。何か崩してみたくなるわ」
「何をおっしゃいますか、先生のおかげでぐだぐだに崩れておりますです、既に」
 どきどきしているのは悟られないようにしながら、にっこりとひなたは笑ってみせる。
 迫田は少し困ったような顔をした。
「そうかねえ……崩れるっていうのは」
 いきなり強く腕を引かれた。バランスを崩し、ひなたはいとも簡単に迫田の腕の中へと倒れ込む。
 耳元で声が聞こえた。
「こうした時にちょっと焦ったり照れたりすることを指すんじゃないの?」
 体中に迫田の体温が伝わってくる。
(……あ)
 腕をつかんでいるのはごつごつとした武骨な手。
 頬と頬とが触れていた。耳には吐息がかかっている。
 いつもより濃いタバコの匂いに酔ってしまいそうになりながら、ひなたは全身が熱くなるのを感じていた。
(わわわわわ)
 頭の中が真っ白になっていきそうだった。
(何故こんなことにー!)
 うろうろと理由を探す気持ちは、抱きつくような今の体勢を意識した途端にかき消えた。
 手のひらをぎゅっと握り込んで、何とか叫びだしたい衝動を抑え込む。
 心臓が爆発しそうな勢いで高鳴っていた。
 視界がぐるぐる回り出しそうなのをかろうじて抑え、ゆっくり体を離しながら笑う。
「……はーい、からかいいただきましたー! いたずらっ子な先生も素敵なのです」
「からかいじゃねえっつったらどうする?」
「え」
 腕はまだ掴まれたままだった。
 まっすぐに見据える瞳からは相変わらず真意が読みとれない。
(あの)
 一瞬、沈黙の中でお互いに見つめ合う。
 迫田が何か言いかけたのを制するように、ひなたは努めて明るく声を出した。
「ほ……ほうほう、先生はこうやって女性を口説くのですね。落ちない人などいないでしょう、さすがそういう部分も完璧なのです。よろしければお好みの女性など連れて参りましょうか、姉が二人おりますので案外顔は利きますよ」
「あのなあ……」
 迫田は脱力したような様子でため息をつくとひなたの腕を離し、準備室の扉の方へと向かっていった。
「おやどちらへ、タバコですか? 携帯灰皿所持しておりますよ」
「……何故ある」
「機会さえあれば渡そう渡そうとずっと思っていたのです。先生は煙草をよく吸うと聞いていまして、ちょっと前に買っておりました。よろしければお納め下さい」
 にこにこと笑いながら、ひなたはラッピングされた携帯灰皿を差し出す。
 ぽかんとした顔で一瞬だけ硬直する迫田。小さなため息をついてひなたの方へ戻ってきた。
「……アホか」
「おぅっ」
 頭を軽くこづかれ、ひなたは情けない声を出す。
 携帯灰皿をポケットにしまっている様子を見て、ひなたは小さくガッツポーズをした。
「あ、もらってくれるのですね。やった」
「一応な、ありがとう」
「ではでは、また明日会いましょう」
 手を挙げて困ったように笑う迫田の姿に小さくお辞儀をすると、ひなたは理科室の方へと戻る。
 がちゃりと扉を閉めた。
 そのまま扉を背にして大きく息をつく。途端、一気に体が熱くなってくるのがわかる。思わず両手で顔を覆い、その場に座り込んだ。
(『からかいじゃねえっつったらどうする?』ですか)
 口に手を当てて、口角が上がってゆくのを必死に隠す。
 心臓が驚くほどにはねていた。冷静でいられると思っていたが、どうやら当てが外れてしまったようだ。
(なんてことでしょう)
 以前より好きで好きでたまらなかったが、先ほどの行動で何かが完全に振り切れたように思える。
 心臓の高鳴りは全く治まってくれる様子もない。ただちょっとからかわれただけだというのに、感情はあらぬ方向へと突っ走り始めている。
 まだこれ以上好きになれるというのだろうか。
(しっかりしなさい)
 自分のことが恐ろしくてたまらない。
 前よりずっと、頭の中が迫田でいっぱいになっていきそうだった。
(これ以上はダメです)
 少し腕を引っ張られて、少し距離が縮まっただけだというのに、どうしてだろう。
 これ以上好きになってしまっては、きっと冷静でいられない。ファンとしての限界を超えてしまいそうな気もしていた。
(……というか、前から思ってたって何ですか)
 以前から、気にかけてくれていたとでも言うのだろうか。
 その言葉が妙に引っかかり、ひなたは何もまともに考えられなくなりそうだった。
 動揺していることだけを悟られないようにして、廊下を行く。腕の掴まれた部分が、熱を帯びているように感じられた。
 ひなたが去っていく足音を耳にしながら、迫田は落胆した様子でため息をつく。
「……効果なしか……」
 もらった灰皿を大切に鞄へとしまいながら困ったように笑った。



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