貘 二

「春花ー! そろそろ起きてー!」
「わ、え?」
 兄の声が階下から響く。
「俺もう出るよー!」
 時計を見る。時刻は、七時。
「……!」
 春花はベッドから転がり落ちた。急がないと遅刻だ。起こしてくれた春晃に感謝しながら、パジャマのまま洗面台へと走る。
 鏡に映る自分の顔。どうしてか夢に出てきた今本の表情が重なったような気がした。
「うわ……」
 少し、顔色が悪いような気がする。後ろから春晃がのぞき込んできた。
「顔色悪いなー、お前。昨日帰ってきたときも疲れてたし」
「そう……だね」
 昨日。……昨日は確か、鍵を机の上に置いて、帰ってきた。
(そうだっけ?)
 心の中に浮かんでくる疑問を春花は打ち消しておく。だって春晃が「帰ってきた」と言っているのだし、大体そうでなければ合わないことが多すぎる。さっきまで見ていた映像は夢のはずだ。
 それに、今ここにいる春晃は、春花のことを心配するばかりで、弱音など吐こうとはしない。いつもの春晃だ。
(いつもの)
 春晃が心配性になったのはいつからだっただろうか。
「あのさ、兄ちゃん」
「何?」
「今日、どんな夢見た?」
 春花は兄を呼び止め確かめる。
 春晃は振り返らないまま、歯切れの悪い答えを返してきた。
「んー、美術室で春花と会う夢かなー。まあ、でもやっぱり、春花が出てきてすぐ後くらいで場面変わったんだけどね」
「そう……」
「じゃあ、俺もう行くから遅刻するなよー」
 そそくさとその場を立ち去る。その様子に違和感を覚え、春花は思考を巡らせた。
(あれは……本心……?)
 そして本人。そうではないかという予想が頭の中に沸いてくる。
(いつも隠してた……)
 春晃が大学生の間に亡くなった父。春晃があの頃、変に空回りをしていたのを覚えている。
 あれから、心配性になったことも、いっさいの弱みを見せなくなったことも十分春花は知っている。
(……何がどうなってるんだろう)
 先ほど鏡越しに見た春晃の顔は、少しだけ疲れているようにも見受けられた。
 偶然の一致だ、夢だ。ただの。そう思って春花は首を振る。
(夢……)
 そう思うものの、どこか引っかかる部分が春花にはあった。でも目が覚めたし、昨日ちゃんと帰ってきたし、夢でなければ何なのか、判断が付かない。
 頬を抓っても痛いばかり。古典的な方法に自分でも呆れながら、春花は学校へ行く準備に取りかかる。
(貘)
 動物園で見かけたことがあるような気がする。だが恐らく今本は、その「貘」ではなくて、それこそ夢のように不確かな別の生き物のことを言っていたのだろう。
「現実の貘と、夢の貘」
 違いは何となく分かるけれど、じゃあその「役目」をバトンタッチするというのは何だったのだろうか。夢の出来事を本気で取り扱うなどばかげていると思ったが、それでも夢で聞いた春晃の言葉は本心であるような気がしていた。
 そして何より、今本の言葉も。そうでなければ、最近の夢の連続は、どこかおかしい。
(そう思うのがおかしいのかな)
 春花は制服に着替え、鞄を持って仏間へと向かう。父の遺影の前に立った。
「……お父さん」
 父が亡くなって、数年が経つ。いないということには慣れたが、そこから派生したいくつもの出来事に、未だ春花は慣れていない。
「兄ちゃんね、留年したんだよ。あの後」
 アルバイトを増やした結果だったように記憶している。ただ忙しそうにいつも動き回っていた兄。
 父がいない隙間を埋めるようにひたすらがんばっていた姿は何だか見ていて怖かった。弱音を吐かないまま、ただ忙しそうで、あの一年という時間はとても短かった。
『もう少しだけ、時間がほしかった』
 本心だとすれば、何の時間がほしかったのだろうと春花は考える。
(教師に、なりたかったんだよね?)
 もう一つ思い起こされるのは、教師という職が決まった日の春晃の表情。
 教師になりたいと言っていたはずなのにその表情はあまりうれしそうではなく、むしろ不安げだった。
「何の時間がほしかったんだろう」
 忙しそうではあったけど、作ろうと思えば時間を作れたはずだ。
 確かに現状も忙しそうではあるし、うなされてもいる。果たしてどうすればいいのか。
「心配性になったし……」
 本当は、春花が春晃を心配したい。何かできることはないかと、考えてもいる。だがそれは恐らく、春晃に拒否されるだろう。
(だって)
「俺がやらなきゃ誰がやるんだよ」
 春晃は痛々しいほどに、要領が悪い。
「でも……」
 背負わなくていいものまで背負う。
「時間がほしい。俺も……もう少しだけ、本当は……。でも」
(またこれも、夢か)
 後ろから聞こえてきている春晃の声。春花は遺影を見つめたまま、ただ黙ってその声を聞く。
 いつの間に夢になっていたのか、判断が付かなかった。
(……夢?)
 春晃の言葉は夢などではない。春花にはそう思える。これは、現実の心情だ。
 そこまで春花が考えたとき、学校のチャイムが聞こえた。
「……」
 顔を上げる。昼休みのようだった。
「春花、最近眠そうだね」
「そう?」
 友人は空になった弁当箱を抱えている。
「ぼーっとしてることが多い」
「そうかなあ」
 ぼんやりとした返事をしながら、春花も弁当箱をしまう。
 友人によると、どうやら話の途中で寝てしまったらしいとのことだった。
「今日、部活行けそう?」
 心配そうにのぞき込んでくる友人。今本の顔が頭をよぎった。
「……今日は休むよ」
 気がついたらそう返事をしていた。春花の頭の中は春晃のことと今本のこととでいっぱいだった。
「それは残念」
「何なんですか」
 思わず怒りの感情をぶつけそうになって春花は思いとどまる。
 教室には誰もいなかった。外から射し込んでいるのはオレンジの光。まただ、また夢だ。いらだちさえ覚えて、春花はもどかしい思いでいっぱいだった。
「帰りたい……」
 現実的な夢を何度も繰り返して見てしまうだけのはずだったのに、最近はいつの間にか現実が夢になっている。
 目の前の今本から春花は目をそらした。今本のこんな表情は知らない。何かをあきらめたような、空虚な表情。
「信田先生のもとへ? うなされてるねえ……」
「……」 
 早く夢から覚めないかと、春花は窓の外を見る。
 誰もいない。ただ夕焼けが目にまぶしかった。
「お父さんがいなくなって、考えたね。たくさん。君がいるものだから、守らなくてはって。でもそうするにはまだ、彼はまだ、幼かった」
「知ってます」
 心配性になった原因も知っている。しかしそれを拒否することで、春晃が傷つくことになるのも知っている。
「もう少し、時間がほしかったんだね。考える時間、一人で、信田先生だけの答えを見つける時間。背伸びしないで、自分でいられる時間。急だったものだから、張りぼての『大人』が崩れている」
「……」
「早く覚めてほしいねえ、夢でしかないのに」
 今本の顔は、疲れているようでもあり、同時に何かつまらなそうでもあった。
 「夢でしかないのに」という言葉がひっかかって、春花はむっとしたまま外を見つめ続ける。
「君にしかできないことがある」
 今本の言葉で春花は振り向いた。
「先生の悪夢を食べてほしい」



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