貘 一

 このところ、レギュラー出演だという。
「うん、で、結局春花が出てきたあたりで俺も目が覚めたんだけどねー」
 兄の言葉に相づちを打ちながら、春花は食器を片づける。
「それで四時起きか……。おじいちゃんみたいだね」
「悲しくなるからやめろ、まだ三十にもなってないのに」
「四捨五入しようか?」
「やめてください」
 振り向いての一言に、兄は深く頭を下げていた。その仕草がどこか子供っぽく映り、春花は小さく笑う。
(九つも上なのに)
 今年で二十六になる春晃は、ちらりと台所の時計に目をやった。つられて春花もそちらを見やり、問いかける。
「兄ちゃんそろそろ出たら?」
「そうだなー……。いいな、日曜日休みで」
 その言葉は心底うらやましそうだった。少し思うところはありながら、春花はそれを口に出さず代わりに意地悪く質問する。
「学生は充分経験したんでしょ?」
「まあな……。じゃあ、母さん、今日七時には帰れるらしいから」
「分かった」
 台所を出て行く春晃。遠くから聞こえる鉦の音と、漂ってくる線香のにおい。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
 玄関の閉まる音。春花は食器棚を閉めると、一つ息をつく。
(夢ねえ……)
 先ほど春晃が話していた夢の内容は、あまりよろしくないものだった。少なくとも、楽しい夢ではない。
 教師という職は、想像するよりも大変だと聞く。もしかするとそれが夢に出てきているのかもしれないと春花は少し心配になる。
(受け持ち、一年生だしな)
 春花も、生徒として春晃と同じ高校に行っているからから、何となく大変さは想像がつく。加えて、まだまだ新卒の教師だ。慣れなくて気苦労も多いのだろう。
 春晃は「四時に起きた」だなんて珍しいことのように言っていたが、時折うなされている声が隣の部屋から聞こえてくることもある。 
(就職するまでも大変だったからなあ……。兄ちゃん真面目すぎて)
 背負わなくてもいいものまで背負う、春花とは反対の、要領の悪い人だ。
 春花は仏間へと足を進めながらそんなことを思った。
(……ん?)
 最近うなされ始めた、そして自分がこのところ夢にレギュラー出演って、もしや私にうなされているとでもいうのだろうか。失礼な。
 ふと浮かんだ可能性に春花は渋い顔をしてふすまを開けた。父の遺影に何となく語りかける。
「兄ちゃんだけじゃないんだよねー、変な夢見てるの」
 最近、妙に現実味のある夢を見るようになった。
「夢の中でまで、学校行ったり、朝慌てて起きたりしたくないんだけどな」
 自分自身のことを振り返る。現実味のある夢、やけにリアルで起きたときに気疲れしてしまうような夢。
「だからちょっと疲れてさ、実は今日兄ちゃんより早く起きてたんだよ」
 春花は自分が愚痴しか言っていないのに気づき、慌てて線香をあげ、鉦を鳴らす。目を閉じて手を合わせた。
 周りに誰もいないのをいいことに、少しだけ甘えた口調になっていた。父がいなくなって数年だが、寂しいという感情は未だに消えてはいない。
(……)
 頭をよぎった兄の姿を振り払う。
「まあ受験に魘されないだけマシ? 来年は魘されそうだけど……」
 そう言って春花は遺影に笑いかけた。父親が一瞬笑ったような気がして、目を瞠る。
「良い夢で目が覚めると良いね」
 誰かの声までもが聞こえたような気がして、春花は思わず後ろを振り向いた。
 見覚えのある姿。それは父親ではなく、しかしよく知っているあの人のものだ。
「……先生?」

 光が差し込んでいる。
 気づくとそこはベッドの上だった。けたたましく鳴る携帯のアラームを止め、春花は日時を確認する。月曜日の朝、六時四十五分。
 どうやら、今まで見ていたものは全て夢だったらしい。
「また?」
 最近こうして、現実味のある夢を見ることが多くなった。
 春花は大仰にため息をついた。
「何か頭疲れる……」
 リアリティがありすぎて頭が追いつかないのだろう。結構ダメージが大きい。
 ため息をつき、春花はベッドから降りる。机の上に置かれているのは、描きかけの絵。所属している美術部で描いているものだ。
(まあ)
 絵を手に取り、正面から見据える。
 こういう夢を見るようになってから、創作意欲がわいてくるようになったのは、良いことかもしれない。
「着替えよう」
 しばらくすればこの現実味ある夢の連続も終わるだろうと、漠然と考える。
 階下から物音はしない。兄は学校へと向かったらしい。月曜は早めに出ると聞いている。今日はちゃんと眠れたのだろうかと春花は少し不安に思った。
(無理してなければいいけど)
 誰にも決して弱音を見せようとしない春晃。それがいつからのことだったか、春花はおぼろげに覚えているような気がした。
(……まあ、私には何もできないしなあ)
 心配したところで、春晃は大人なのだ。春花のできることなど限られているだろう。
 そう思おうとする度、どこか心が反論してくるような気分に駆られてくることを春花は知っていた。

 一日は何事もなく過ぎ、放課後へと変わる。
「信田さん」
 美術室へ向かう背中に、声がかけられた。
 部活顧問の声だ。振り向くかどうか、一瞬だけ躊躇して、春花は立ち止まった。
「はい」
「ちょうどよかった。今から部活行く?」
 その声で振り返る。穏やかな笑顔の中年男性。すらりとした細身の体躯と、白髪の全くない髪。
 そろそろ五十にさしかかろうというのに若々しい顔立ちであるからか、一部の女生徒から人気を博している美術教師だ。
「行きます」
 そして今朝、夢の中で仏間に立っていた教師でもある。
「ごめん、僕ちょっと用事があって……。美術室の鍵、開けておいてくれないかな」 
 おっとりした仕草で鍵を差し出してくる。
「分かりました」
 鍵を受け取りながら、その顔を窺う。優しく細められた目と、笑い皺のできた頬。いつもと変わったところは見受けられない。
 あれはただの夢なのだから当然といえば当然だ。身構えてしまった気持ちを振り払い、春花は笑顔を作る。
「また返しに行けばいいんですよね?」
「うん。あ、もしいなかったら、他の先生に『今本先生の机どこですか』って聞いて机の上に置いててくれたらいいよ」
「分かりました」
「頼んだよ」
 頷いて踵を返し美術室へと向かう。そうだ、部活の顧問なのだから今本が夢に出てきたって何の不思議もないのだ。
 納得して、春花は一つ息をつく。
「あ、春花、鍵持ってるの?」
「うん、開けるね」
 美術室前で待っている友人たちをかき分け、春花は扉を開けた。
「ありがとう」
 友人たちが全員部屋に入った後、何となく決まっている定位置へと移動する。
 画材道具に、描きかけの絵。いつもの動作をこなしながら美術室を見渡した。
「……」
 お喋りをする者、絵を描いている者がそれぞれいる状態。いつもの光景だ。
 キリのいいところまで描き上げたら、春花もお喋りの輪に加わろうと考えていた。
「……春花」
 椅子を持ち出し、キャンバスに向かう。どこからか聞き覚えのあるような声がして、思わず辺りを確認する。
 いつも通りの光景が広がっているだけだ。誰もその声に反応しているものはいない。気のせいだろうか。
「いいなお前は」
「え?」
 再び、聞き覚えのある声。だがおかしい。学校では互いに話しかけないように決めた。
(兄ちゃん……?)
 それなのに春晃の声が降ってくるような気がしていた。
「俺もまだ……」
 声のする方向を探し当てると、そこには怒りとも悲しみともつかない形相の春晃がいた。
 美術室からはいつの間にか友人の姿がすべて消えていた。おろおろと春花が周囲を見渡しても状況は変わらない。春花はすぐに春晃に向き直る。何が起きているのかより、春晃がどうしたのかを知りたかった。
「でも俺がやらなきゃ、全部……。俺はまだ、でも、……もう少しだけ、時間がほしかった……。何でだ、俺にその権利はないっていうのか? どうして」
「兄ちゃん」
 言葉が続かない。とりあえず落ち着いてもらわなきゃいけないと、手を伸ばした。
 その瞬間、視界を黒い靄が遮る。
「え」
 事態を理解できないまましばらく時間が経った。体は動かせない。
 靄が晴れ、目の前にあったのは見慣れた木目。机のようだ。状況理解に少し時間がかかる。
(……寝てた?)
 夕刻を少しすぎたくらいだろうか。美術教室には誰もいない。春晃の姿もない。
 どうやら、机に突っ伏した形で寝ていたらしいと春花は理解した。それにしても、いったいどこから夢だったのだろう。
(いや)
 確か、絵を描いている途中で眠くなって、そのまま友人に断って寝たのだ。
 そのはずだ。そうでなければつじつまが合わないし、春花の頭はそう判断している。
(本当に?)
 途中で眠くなったというのもつじつまが合わないような気もしたが、あまり深くは考えないことにした。
 大体春晃の姿がここにないということは、今までの映像はすべて夢だったのだろう。そもそも春晃はあんな弱音を春花に直接言ってくれはしない。それに脈絡もなかった。いきなりの展開だった。ということは夢に決まっている。
 最近変な夢が多いけれど、ただそれだけだ。春花はそう判断して息をついた。
(鍵あってよかったー)
 制服のポケットに感覚がある。画材を片づけてさっさと帰ろう。今本先生が残っていたら無駄な心配をかけてしまう。
 しかし友人たちも一声掛けてくれればいいのに。わざわざ電気を消す気遣いなんてするくらいなら。そう思い、春花は背中を伸ばす。
「あ、気がついた?」
 蛍光灯が点く。声のした方に目をやると、そこには友人ではなく、今本が立っていた。
「あ……。すいません」
 反射的に謝り、時計を確認しようと目を泳がせる。
「謝るのはこっちだよ」
「はい?」
 どうしてか時計は見つからなかった。
「言うのが遅くなってしまって……」
「いえ、そんな」
 変な夢を見ていたのだ。うなされていたのかもしれないし、起こしづらかったのかもしれない。寝かせてくれていたのだろう。今本の性格からはあり得ることだ。
「信田さん、疲れてるよね」
「え、……そんな」
「無理はしなくていい」
 眠ってしまっていたのをそう受け取られてしまったのだろうか。春花は何とか弁明しようと思考を巡らせる。
「でも僕も、そろそろ君にバトンタッチしないとおかしくなってしまう」
 いきなり、よくわからない言葉が降ってきた。ゆっくりとこちらへ歩いてくる今本。
 今までの会話が噛み合っていなかったことにふと春花は気づいた。
「バトンタッチ……?」
「そう」
 今本は目の前で立ち止まる。見慣れている笑顔のはずなのに春花は違和感を覚えた。この人はこんなに、老けていただろうか。
 目尻の皺と、少し悪い顔色。そして、表情がいつもと違って、歪んでいる。
「貘の役目」
「貘って……」
「悪夢を食べる生き物。そして現実を食べ、夢に生きる役割だよ」
 春花が聞き取ったのはそれだけだった。



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