貘 三

 いつの間にか春花は廊下に座り込んでいた。急な場面の転換にはそろそろ慣れたので、さして驚くこともなく立ち上がる。
(……美術室のある校舎か……)
『先生の悪夢を食べてほしい』
 貘じゃあるまいに。そう思ったものの、春花が望まれているのは獏としての役割だろうと、おおよそ予想はできていた。「現実を食べ、夢に生きる生き物」。今本の言葉が蘇る。
(どっちが夢? どっちが現実?)
 境界が曖昧になっているような、そんな気分。いつの間にか眠っていつの間にか覚醒している。
(あり得ない……)
 そんなことが現実にあり得るはずがない。廊下を歩きながら春花は小さく首を振る。
 そう思う一方、もしかしたら今歩いている現実が夢で、また目が覚めてしまうのではないかという心配が消えないのも事実だ。兄の口にしていた苦悩が現実であるだろうことも予想に拍車をかける。第一、そのあり得ない事実が何度も続いていることを春花は自覚していた。
 美術室の前で足を止める。今本に会った方が良いような気はしていたが、あれが現実だという証拠もない。
 それに会ったところで仕方がない。違う、今は、会いたくない。怖いのだ。あの表情も、夢も、現実も。認めたくない。
「……」
 足早に、美術室の前を通り過ぎる。
「あ」
 向こうに、春晃の背中が見えた。このまま歩いていくべきか、引き返すべきか。
 どうしてか生まれた躊躇に疑問を抱きながら、春花はゆっくりと歩を進める。
(夢だということにしておかなきゃ)
 例え現実だとしても、夢を食べるだなんてことができるわけない。それに何より、春花自身、春晃に手を貸すことにためらいがあった。
(……兄ちゃんがそれを望まない)
 弱音を見せたがらない人だと知っている。心配される側に心配されれば、おそらく春晃はショックを受けるだろう。
『君がいるものだから、守らなくてはって』
(要領悪いなあ)
 今本の言葉が心の中でよみがえる。何も、春花のことまで背負わなくたっていいのだ。
 それを告げる以外に何かできることがあればとどこかで考えていた。
「春花」
 春晃の方から声をかけてくる。春花は周囲を見渡し、誰もいないことを一度確認した。
「兄ちゃん、学校じゃ声かけないって……」
「ごめん……」
「いいけど」
「……春花、いつもいるね」
「……?」
 言葉の真意が読みとれずに春花は首をかしげる。春晃は春花の様子に気づいているのかいないのか、うつむいたまま言葉を吐き出す。
「春花がうらやましい。俺も時間がほしい。どうして、俺は……でも、俺がやらなきゃ誰もいないだろう」
「……誰も?」
「父さんがいない……。誰が、代わりになれる……? でも俺も、俺にも、時間がほしい」
 よく見ると、春晃の服はいつも着ているスーツではなく、私服だった。それも、大学時代によく着ていたような系統のもの。
(あり得ない)
 ああ、これは夢だ。でも自分は、いったいいつ眠ったのだ。春花には記憶がない。
「時間がほしい、けど、誰が代わりに、父さんの分を埋められる……?」
 春晃の言葉は現実で、本心だと春花は予想していた。そしてその予想はどうしてか、正しいようにさえ感じていた。たとえこれが夢であっても現実であっても、本心だけは共通しているように見える。
 なぜなら春晃が、気負って、背負って、ひたすらに、痛々しいほどに、要領悪く、がんばって、から回っていることを春花は知っていたからだ。
(誰も無理強いしてないのに)
 夢だと分かっているのに、目を逸らせず、言葉も出ない。
(兄ちゃんが一番……寂しいのかな)
 教師になりたいと言っていたのが、父に憧れたからであることを、春花はよく知っていた。今、その憧れの対象はいない。同時に、家族が一人足りない。
 うっすらそれが見えるような気がしていた。しかしこれが夢であったとしても現実であったとしても、自分にできることなどきっと何もない。そもそも自分に救われることを、春晃はきっと望んでいない。
「兄ちゃん……」
「ごめん、ごめん……俺は、お前にこんなこと言いたくないんだ……。俺よりずっと小さくて、それなのに俺は……」
 年の違いは九つ。お互いにそれはわかっているから、役割ははっきりしていた。守られる側と、守る側。
(何もできないのかな……)
 何かできるとしても何もできない。それでも何かをしたい。手を伸ばす方法がわからないまま、春花は黙り込む。ひたすらに悲しかった。
 救いを求めて立ちつくす兄が少し小さく見えてきた頃、後ろから人の気配を感じた。振り返ろうとした春花の視界を、大きな手が奪う。
「安心して。今日はちゃんと僕が食べてあげる。僕は君の親だから」
「……は?」
「獏としての、だよ」
 会いたくなかった人の声。しばらくして手が離され、視界が蘇る。
「そんな怖い顔をしないで」
 それはあなたの方だ、とつい春花は口から出そうになった。部活の時や、授業の時の今本はこんな表情を見せたことがないように思う。
 いつもと変わらない笑顔のはずなのに、どこか歪んでいる。悲しんでいるのとも、嬉しそうにしているのとも違う。
「君は僕の次の獏、つまり僕から力を受け継ぐ子供。ちゃんと面倒を見るつもりだよ」
 憐れんでいるのか、それとも何かからの解放を喜んでいるのか、よくわからない表情を今本はしている。
 思わず顔をそらし、いつの間にか春晃がいなくなっていることに春花は気づく。
「意味がわからないです、ちゃんと説明してもらえませんか」
 場所は美術室。くるくる変わる場所、現実、状況、そして自分。
「説明? 何となく分かってるでしょ?」
 都合よく解釈し、眠った記憶を作ろうとする頭。振り払い、春花は目の前の人を見据える。
「僕と君とは貘なんだよ。悪夢を食べる存在。そして僕はもうすぐ貘としての役目を終え、君にその役目を明け渡すことになる。故に親子」
「そんなの……」
「夢と捉えても、現実と捉えてもらっても構わない。夢も現実もどちらも同じだから」
 言っている意味がわからないまま、春花はただ言葉だけを受け取る。
「夢は、本当の心や想い、そして記憶が反映される」
 分かりやすいように言い換えられた言葉。
 つまり人の見る夢は、その人の現実の心理状態そのままということかと春花は理解する。ならば春晃の言葉はやはり本心だ。
「現実よりリアルな現実だとも言えるね。ただ、貘の食べる夢は悪い夢の種、その人の悩みや苦しみだから、実際にその人が見ているイメージの連続、夢とは少し異なるけれど」
 現実の悩みを反映して悪夢が生まれる。根っこにある悩みを、貘が食べる。
「僕たち貘は、人の夢を渡り歩いて、その人の悩みに触れて食べる。だからずっとずっと現実と夢の間にいなければいけない」
「それで私は、現実味のある夢をずっと見ていたってことですか?」
「過去形じゃないよ、これからもずっと。君はずっとずっと眠り続け、目覚め続ける」
 告げられた言葉。意味を完全に理解はできないものの、今の状態から抜け出せないことはわかった。
 春花はずっと現実味のある夢の中を歩いていなければならないということなのだろう。
「君は、今見ているものが夢だと思う? 現実だと思う?」
 どう考えたって夢じゃないか、こんな非現実的なもの。そう答えようと思っても、どうしてか春花は言葉を続けられない。
「答えなくてもいいよ、僕だってこの悪夢から目が覚めなきゃわからないんだ」
 疲れたとでも言うような顔だった。
 貘としての役目。きっと春花と同じ経験をしているのだろう。夢と現実との連続、その狭間の連続。
「僕の目が覚めるためには、君が貘として目覚めなきゃならない。だからこうして今、夢を少しだけ渡り歩いてもらっている」
「少し……?」
「練習だよ、もうすぐ君は目覚める。だからその前に少しだけ、歩いてもらってる。信田先生の世界を」
 ここ最近見ていたものは練習にすぎない。目覚めて、眠って、春晃の葛藤を知ったことは練習の一環だと今本は告げる。
 これからいったい、どんな毎日を送ることになるのだろうか。春花の頭では理解できそうになかった。
「先生を救いたい?」
「……」
 今本の言葉がやけに響いた。おそらくこれを肯定し、春晃を救うことは、「貘」に関する何かとつながるのだろう。
「君が悪夢を食べることで、とても楽になれるから」
「何で私が『貘』なんですか?」
「僕も分からない。ただ僕は、次の貘が分かっただけ。そして前の貘にされたことと同じことを君にもしているだけ」
 理不尽な言いぐさ。逃れることができないのだろうと春花の前は何となく思った。
 顔をしかめた春花に、今本は歪んだ表情で笑いかける。
「大丈夫、今日は特別に、僕が食べる。今君の見ている、お兄さんの悪夢はね」
 目が覚めた。




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