脚本屋 七


 紫苑色の光が部屋に満ち、すぐさま収束した。
 ゆっくりと、京の手のひらに紫水晶のような石が落ちてくる。紫色の光など、ここでみることになるとは思わなかった。
 京は石をテーブルの上にゆっくり降ろし、先ほどまで紫苑色を放っていた魂の方を見遣る。
「紫」
 返事はない。勝手に部屋に入ってきて、うろうろと飛び回っていたあの光はもうない。それでも頭の中に、紫の声が蘇ってくるような気がしていた。
(数日……)
 たかだか数日しかたっていないというのにどうしてこうも心の中がうるさいのか。
 テーブルの上に置いた石を再び握る。手が震えているような気がした。
「離してやれ、割れたら意味がない」
 敏秋の言葉で、自分が強く握りしめていたことを知る。そっと割れないように置き、息を吐いた。
 現実味がなかった。冷えていく思考でただ事務的に敏秋に聞く。
「迎えはいつ」
「今日」
「今日……」
 心の底からぐちゃぐちゃと色々なものがわき上がってくる。
 できるだけ表に出さないよう堪えながら、ぐるぐると思考を回転させていた。
「京」
「何?」
「我慢するな」
「うるさい」
 紫が初めてこの店に来たときは、体よく追い出そうと考えていた。
(話しただけなのに)
 少し二人で話をしただけなのに、ずいぶんと自分はこの魂に入れ込んでいた。
 紫がいないと寂しいと感じるほどに、悪く言われて怒るほどに入れ込んでいた自分が何だか、妙にも思える。
『京さん、私に絶対脚本書いてくださいっ! 京さんのストーリー、私、好みです』
 最初は何を言い出しているのだと思った。願いを聞いても具体的なものは一つも出てこなかった。
『何でも良いです! 自由に書いた脚本で構わないです』
 自由に書いた、書きたいものを書いただけの脚本で喜んでくれるのはおそらく紫だけだろう。
 もう少しの間一緒にいたかったと京は今更思っても仕方のないことを考えた。
 もっと一緒にいればもっと仲良くなって、やがて自分ももっと変わったのではないだろうか。
(いや)
 わがままを振り捨てて首を振る。
(ありがとう)
 十分たくさんのものをもらった。言いたいことはたくさんある。話したいこともたくさんある。
 でもそれを考えてもどうしようもないような気が、京はしていた。
「……」
 敏秋は黙って、紫だった魂と京を見る。
 悲しそうにも寂しそうにも見える表情のまま、ただ話しかけるタイミングを探り、やがてゆっくりと口を開いた。
「奥の部屋に連れていってくる」
「うん」
 その声は不自然なほど力強く頷いた。
 扉が閉まる。京は誰にも届かない言葉をつぶやいた。
「いきたいなあ」
 できることなら、再びあの魂に会いに行きたい。そして一緒に生きていきたい。
 そして「生きている」と実感のもてる自由な脚本を、人生を演じきってみたい。願わくばあの脚本を演じたい。
(紫……)
 あの脚本の中に入れば紫に会えるんじゃないかと、どうしようもないことを京は考えていた。

 しばらくすると、扉を叩く音がした。敏秋と閻魔がそろって現れる。
(……罰)
 紫に脚本は渡した。
『紫けなすようなバカに何で私が脚本書かなきゃいけないわけ?』
 思わず口走ったあの言葉は、本音だ。紫をけなされたくなかったから、ああ言った。
『私、ここでたくさん京さんとお話しできて楽しかったです。お友達になってくれてありがとうございました』
 ああ言ってくれたのも事実だ。ならば、後悔することはないような気がした。
 別れの感傷を打ち消して、まっすぐに閻魔を見据える。その横で敏秋は少し複雑そうな顔をしていた。
「じゃあ、君から自由を剥奪するよ」
「……」
 具体的な罰の内容を聞いていないことを京は思い出した。
 一体何をされるのか。地獄の中でさまよい続けるのか。それでも、ここ数日のことを心で暖めていればいくらかマシに過ごせそうだった。
(ごめん)
 おそらく、約束は破ることになるだろう。「またいつか」なんて言っておきながら申し訳ないと思った。
 紫に会いたいなど、体のいい願いにすぎない。
「まず最初に、君はクビだよ」
 予想していた言葉だった。次にくるのは何か。閻魔がこれだけで済ませるとは京には思えなかった。
 自由を奪われる。この地獄では何でもありだ。何をするのか、されるのか、予想は容易にできなかった。
「そして、君の意志を剥奪する」
 脚本屋として長い間、人の意志を剥奪してきた自分には似合いの罰だと京は思った。
 たとえここが罰を与えるための店で、閻魔に雇われ、頼まれて書いていたとはいえ、実際に自分がしてきたことはそういうことなのだ。
「最後に書いた最悪の脚本。罰を与える店という、この店の目的、そして地獄の目的にさえ刃向かうような脚本。……こんなものはもうここにいらない」
 閻魔が手にしていたのは、紫に与えた脚本のコピーであるようだった。
 見覚えのある文字に、ついさっきまでのことがぐるぐると頭の中をよぎっていく。
「はは……。これじゃ『生きてる』と思える最悪のシナリオだよ。ここは天国じゃないんだよ? 触りたくもない。これは君が責任もって処分。自分の手で」
 閻魔はそう言いきると、つかつかと京に近づいてくる。
 ずい、と脚本を差し出した。
「今から生きてきて」
「……え?」
 予想外の言葉に、京は硬直する。閻魔の放った言葉が何を意味するものか、瞬時には理解できなかった。
 ややあってから、京は頭を下げる。
「ありがとうございます」
『また絶対に、お会いしましょうね』
 これなら、紫に会える。同じ道を生きることになる。
 たとえ意志のない間だけでも、京はそれで十分だった。
「何を勘違いしてるの? 言っておくけど、こんな罰にもならない脚本を書く人間は地獄にいらないの。甘っちょろく毒気の抜けた君なんかじゃ到底ここはつとまらない。ここには『人生』に恨みのある人間がいないといけない。君に資格がないって言ってんの」
 閻魔は京の様子に呆れているようにも見えた。うなずいている京にしばらくして困ったように笑いかけ、大きく息をつく。
「京」
 何かを言いたそうな表情の敏秋と目が合った。
「何?」
 言葉を探すようにして敏秋は逡巡する。言うべきことがたくさんあるはずだった。
 だが今、それは言えなかった。その代わりに首を振り、寂しそうな表情をたたえて、まっすぐに京を見る。
「……いってらっしゃい」
 無理矢理作ったような、力強い声だった。
 京の頭の隅にちらりと、初めて会ったときのこと、今までのことが蘇ってくる。
「いってきます」
 ありがとうと口に出すのは恥ずかしく、ただまっすぐ京は敏秋の方を見た。
「口で言え口で」
「……言わなくてもわかってるんじゃん」
 憎まれ口をたたくのもこれが最後だ。一度息をついて、京は閻魔の方を見る。
「……じゃあ、早速行ってもらおうか。もう絶対戻ってこないでよ」
 どきどきと心臓が音を立てているような気がした。紫に会う。そして自分はまた何度でも生まれ変わって、生きていくのだ。恐らく、今までに経験したことのない出来事をたくさん経験するのだろう。
 紫に会うという願いの代わりに得た脚本を抱きしめる。ここに広がるストーリーに思いを馳せて、京は笑った。

「……」
 京の姿が消えるのを見たくなくて、敏秋は目をつむる。目蓋の裏に、光を感じた。
 やがて光が収束する。恐る恐る目を開けると、閻魔が石を受け止める瞬間が目に入った。閻魔の手にするその色に敏秋は瞠目する。
「紫……」
 少々くすんではいるが、石の色は紫という以外に形容できないものだった。
 脚本屋に不似合いだと思った色。京の色。
「罰を受けて更生したからね」
「そうですか」
 閻魔の言う罰が、今京に与えられたもののことを指しているのではないと敏秋は知っていた。
(……十年間)
 ここで「脚本を書き続けること」が京にそもそも与えられた罰である。初めてここに来たとき、そう教えられた。
 前世で八年の間抵抗もせずただ生きてきたことが罰に値するのだとも聞いて、改めてこの世界について考えた覚えがある。
「……それにしても随分ありふれた人生を書いたものだよねー、京ちゃんも……超駄作だった」
 閻魔は本当に呆れたというような表情をする。
 相当気に入らなかったのだろうなと敏秋は判断した。
「で、脚本が同じだったら人生丸被りですけどどうするんですか?」
 事務的な口調で聞く。閻魔はいたずらっぽく笑った。
「ヒントその一、双子。ヒントその二、僕は閻魔大王様」
「正解は『何とでもなる』ですか」
「百点満点!」
 敏秋は無邪気な笑顔に苦笑を返し、大きな息をついた。
 皮肉っぽい表情で問いかける。
「俺、思うんですけど」
「んー?」
 閻魔がのびをしながら振り返る。
「ちょうど十年目に当たる日に京が店をやめるなんて、随分タイミングいいですよね」
 よすぎて怖いくらいに、まるでどこかの物語のように、良いタイミング。珍しい紫の魂がここに来たのは緑の魂によるものだったが、何だかあまりにもできすぎているように敏秋は感じていた。
 そのままそれとなく閻魔の表情を窺ってみるも、笑顔は全く崩れていない。
「それさーあ、まるで僕が脚本通りに皆を動かしてたみたいじゃない。ギャグ?」
「ああ、すいません」
 形だけの謝罪を気にする風もなく、相変わらず閻魔はにこにこと笑う。
「まあでもー、紫ちゃんにも会わないまま、ずっとここにいたら、それこそ本当に腐っちゃってたかもねぇ」
 その言葉で敏秋はソファを見やる。ついさっきまで京の座っていた場所。
(……)
 自分は京の雑用係という立場だった。この脚本屋では何の権力も持たず、京に干渉することはできない。
 それに、自分より紫の方が適任だっただろう。そんなことを思って、敏秋は小さく息をつく。
「本当は自分が友達になってやりたかったって? 地獄と極楽の架け橋にでもなるつもり? 窓際くん」
「窓ぎ……ここに来たの栄転! 栄転ですから! 左遷じゃないですからね!」
「僕が君ならわざわざこんな所に降りてこないよ……」
 閻魔は敏秋を見上げてつぶやく。
 ため息の混じったその声に、敏秋は勢い込んで弁解した。
「だってほら! 地獄側の監視も極楽の重要な仕事の一つで! だからこそうちのリーダーは俺に任せたわけですから!」
「……監視する対象と仲良くなっちゃうような人に重要な仕事を任せるんだね、僕の兄って」
 本気で呆れたような声だった。決まりが悪くて敏秋が黙り込むと、閻魔は面白そうに口の端をゆがめる。
「そうそう、明日、面白いものが見られるよ」
「何ですか?」
 あまり期待してない表情で敏秋は閻魔を見やる。
 この人が「面白い」と判断するものはだいたい敏秋にとって面白くないものだ。
「教えない。とにかく今から明日までは自由にしててよ。十年間よく頑張りました」
 小学校教師のような台詞を吐くと、閻魔は玄関へ向かって歩き出す。その後ろを敏秋は黙ってついて行く。
 家が静かだ。普段からそう騒がしかったわけでもないが、何かが抜けているような気がした。
 敏秋に背を向けたまま、閻魔は無言で廊下を突き進み、見慣れた店先へとたどり着く。
「僕はまだ仕事あるから。また明日ね」
「はい」
 敏秋の返事を聞くか聞かないかの内に一瞬で消え去る。閻魔のいた場所をしばらく見つめた後、ため息をついてリビングへと戻った。
 がらんとして誰もいない。いつもの場所に腰掛け、目を閉じて思考を巡らせる。しんとした家。
 十年間の仕事に、一度区切りがついたのだ。
(監視するだけの仕事)
 十年という歳月は、情を移すに十分だった。
 けれど自分の仕事はあくまで監視だけであり、それ以外のことに手出しはできない。彼女の生き方にも、脚本にも。ただ何かあればそれを報告するのみ。
 もどかしかった。
(いつか……)
 いつか誰かが、彼女を変えてくれないかと望んでいた。
 ふらっと現れた紫は、敏秋の願いを叶えてくれた。
(……)
 立ち上がり、ゆっくりとした足取りで扉へと進む。
 誰もいない家。十年ぶりのことだった。そのまままっすぐ京の部屋へと進む。扉を開けて、立ち尽くした。
『……本当は薄々分かってたよ』
『何に?』
『……幽霊がこんなところにいるわけないじゃん』
 あのときの会話が頭の中によみがえってきた。
(不自然ではあったよな……)
 魂の通り道のすぐそばで、人間の形をした幽霊が成仏を待ってただ滞在しているわけがない。
 何らかの目的があるはずだと彼女は気づいているはずだった。
『でも別に、嫌じゃなかったよ。兄みたいに思ってたし』
『そう』
 そうやって素直に感情を口に出してくれたのもおそらくは、紫の影響だったのだろう。
 魂をうらやむ彼女を、敏秋はどうにかしたいとずっと思っていた。それを叶えてくれたのは紫だから、感謝しなければならない。
『いつも何か言いたそうな目で見てるのも気づいてたよ』
(寂しいなあ)
 感謝しなければならないが、もやもやとする気持ちはごまかし切れそうになかった。
 いつだって別れと出会いは繰り返される。何十年とこの死後の世界に携わって、それを知らぬ敏秋ではなかった。
『口で言えって思ったけど、言えないのも気づいてた。むかついたけど』
『……』
 ずいぶんと京はいろいろなことを知っていたらしい。
 何もできないままただ傍にいることは、彼女のためになったのか。ただ監視する対象であるというのにずいぶんと肩入れしている自分に敏秋は気づいていた。
 紫が変えてくれた。もどかしかったものに手は届いた。それでいい。
(もう会えないな)
 京の机の上に置いてある万年筆を見つめながら、そんなことをぼんやりと思う。
 二人との出会いはおそらく、繰り返されることなどない。敏秋が脚本屋にいる限り、それは絶対だ。
『この子、京ちゃんって言うんだよ』
『京?』
『あんた誰?』
 思えば初めから生意気な少女だった。
 ただ閻魔に言われるまま懸命に脚本を書き続ける姿を見て、この子も閻魔の脚本通り動かされるのかと少し哀れにも思った。
「結局俺も……」
 言われたとおりに監視して、仕事を全うしている。誰かの手のひらの上で、いわれたとおりに。
 それでも京が最後に感謝してくれたならそれでいいと敏秋は笑った。
 窓の外を、魂たちが通りすぎていく。
(脚本通りの人生って)
 生きていく京は、紫は、どう思っているのだろう。
 少なくとも二人が『生きている』と思える人生であればいいと敏秋は思った。

 敏秋が目覚めたのは、閻魔の呆れ返った言葉によってだった。
「もしかしてずっとこの部屋にいたの?」
「……えーと」
 どうやら京の部屋で眠っていたらしいと判断して体を起こす。呆れたというようにため息をつく閻魔。
 嘘をつくべきかどうか一瞬迷ったが、答えを求める純粋さの欠片もない目に負けた。
「はい、いました」
 舌を抜かれるのは怖いので正直に答えた。
 この世界はどうも時間が分かりづらくていけない。もう一日たったのかと、覚醒しながら敏秋は思った。
「感傷的だねー……あれだね、八十年代のドラマのにおい」
「ああ、その辺が青春なんで」
「舌抜くよ?」
 ついサバを読んでしまった。
 敏秋が慌てて口を押さえたのが面白かったのか、閻魔はけらけらと笑う。
「……で、何ですか」
 笑い続ける閻魔に気分を害しながら、敏秋はゆっくり口から手を離す。
 そのまま立ち上がり、瞠目した。
「面白いもの、連れてきたよー」
 閻魔の向こうに見えたのは、ショートカットの黒髪。
 まだ十二、三歳とおぼしき少女。こちらに生意気そうな黒い瞳を向けて、唇を引き結んでいる。
「……京?」
「あんた誰?」
(口調まで)
 本人ではないことを敏秋は分かりきっていた。それでもよく似た面立ちの、そしてよく似た口調の、おそらくは新たな脚本屋。
 繰り返しで同じシーンを演じているかのような状況だ。敏秋はただ混乱し、どこか冷静な頭で再び同じ生活が始まるのかと悟った。
 沈黙がおかしかったのか、閻魔は笑いをかみ殺す。
「ふふ。ケイはケイでも、この子は土を二つ書いて『圭』ちゃんだよ」
「……」
 圭は生意気そうな表情でこちらを見上げる。
「じゃ、あとよろしくね」
「え、ちょっと」
 敏秋の複雑な心境と圭とを置き去りに、閻魔はするりと姿を消す。
(また……)
 もどかしくてそして愛しい監視の日々が始まるのだろう。
 再び紫の光が現れて、ケイが喜び敏秋が寂しくなるその日まで。
(ははは……)
 過ごした日々が嫌ではない。また繰り返す人生も悪くはないだろう。それが自分の役目なのだから。
 圭はじっと敏秋を見上げ、説明しろと目で訴えてくる。取りあえず、口で言えという注意は後にしておこう。
「ここ、脚本屋って言ってね。人が、大事な人生の脚本を得る場所なんだ」
 何度も繰り返した説明を、敏秋は再び口にした。



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