春の山、鹿の骨 6


 ――しかしある日、罠を解ひたことに逆恨みしてゐた仲間の猟師は、桃の鹿が心優しい猟師の妻になつてゐることに気づきました。
 栄助は男の言葉を思ひ返しながら、山の内を駆け回り、鹿女を探してゐた。
 深い事情があるのだらうとは思つてゐたが敢へて聞かなかつたのは自分であるから、彼女の素性が嘘であつたことはどうでもよかつた。今はただ、留守にしてゐたことが悔やまれた。
 ――仲間の猟師は早速そのことを役所に届けます。何でもその国の主は珍しいものが大好きで、桃の鹿を血眼になつて探してゐたのでした。
 いや、ただ独りよがりに、家族の増えたことに、一人でなくなつたことに喜ぶのではなく、もつもつと話をすれば良かつたのかも知れない。俺の今までしてきたことは児戯に等しかつた。ただの惚れた腫れたではなくもつと深め合へば良かつた。さうすれば、今回のことを招く前に二人で駆け落ちでもできただらう。さうして仕舞つてから、色々の事情を聞くこともできただらう。
 事情のあるのを分つてゐて、懐の深いふりをしながらただ一人で喜んで、目を逸らしてゐたやうなものだ。現実主義者のふりをして現実の見へてゐない夢想主義者だったのが、災ひしたのだ。
 ――沢山のお役人は、猟師の留守を狙つて家を訪れ、妻となつてゐた鹿を捕へました。
 春の深まる山の色はやはらかで、栄助の心持ちとはちぐはぐであつた。
 野桜を見るにつけ、彼女の着てゐたものかと思つてはつとした。
 ――お役人は聞きました。そなたの足の怪我は先日の罠に依るものであらう。さあ云へ、誰が罠を外したか。鹿は初め答えませんでした。すると役人は、答へれば罠を外した者を、答へなければ夫を罰すると云ひました。鹿は答へられませんでした。いずれも、愛する夫を罰する答へだつたのです。
「どこへ行つたのだ」
 ――鹿は逃げ出しました。そして役人は到頭云ひました。誰かあの鹿を捕へよ。もはや生死は問はぬ。きつと探し出し、撃ち殺して仕舞へ。さう云つて、山に下りる道をぐるりと塞ひで終ひました。
 ――「栄助。俺は、お前が手柄を台無しにしたのを恨んぢやゐるが、お前の猟の腕は買つてゐる。鹿女さんも、栄助に撃ち殺されるなら本望だらう。一つ撃つてきちやあ貰へないか。そうすれば今回一の功労者である俺から、お役人様にお前の取成しを頼んでもいい。恨みもそれで終ひにするさ」
 栄助が初めに鹿女と会つた場所に辿り着ひたのはただの偶然であり、きつとここにいるだらうと云ふやうな予感ではなかつたが、果してそれは正しかつた。
 白雪のやうに、桃の花弁が舞つた。鹿女の声にも似た、鈴の音が聞こえる。
 ――片角の折れた、桃の鹿が其処には居た。
「鹿女」
「……」
 見覚へのある、桃の上衣を背に引掛け、黒々とした、それでゐて凛とした瞳で栄助を見るのは鹿の姿となつた妻であつた。
「鹿女。ここに居たか。もう撃たれたかと思つて肝が冷えた。ああ、良かつた。お前は未だ生きてゐた」
 泣き笑ひのやうな顔で、栄助は鹿女ににじり寄り、その首元を抱きしめる。
 桃の鹿は大人しく、一言も発しない。
「俺が悪い。すべて俺が悪いのだ。――俺がもう少し、お前のことを気にかけて、お前の本当の事を知ればよかつた。俺はただお前を得たことを喜ぶだけの子供であつた。許せ、鹿女。許せ、吾が妻よ」
「――栄助様」
 夫婦となってからは久しく聞いてゐなかつた『様』付きの呼びかけではあつたが、それでも栄助は鹿女から言葉の出たのが嬉しかつた。
「鹿女」
「私をお撃ちくださいまし」
 有無を言はせぬ、気丈な瞳であつた。
「肩に背負つたその銃で、私をお撃ちくださいまし」
 その強さに気圧されさうになりながらも、栄助は強く首を振る。
「成らぬ。できぬ。自分の妻を手に掛けるなど」
「優しい方。誠実なお方。このお姿を見ても、鹿女を妻と呼んでくださいますか」
「当然であらう。お前の美しさは変はらぬではないか」
「鹿女はそのお言葉だけで、幸せでございます。――しかし、もう猶予はないのでございます」
 桃の鹿は、栄助からつと身を離す。
 潤んだ瞳で、しかしそれでゐて睨み据ゑるやうに、栄助に対峙した。
「この山は全て役人に取り囲まれて居ります。山狩りが始まるのも時間の問題。それまでに鹿女をお撃ちになり、手柄としてお渡しくださいまし」
「成らぬ」
「さうすれば桃の鹿を逃した咎めは晴れ、褒美も手に入りませう。最後の神使の力で漸く鹿に戻れました。……片角でどこまでの褒美になるかは分りませぬが、栄助様の手に掛るのであれば、鹿女も悔ひはございません」
「できぬ」
「栄助様。鹿女の幸せは、譬ひこの命尽きやうと、あなた様が幸せになることで――」
「ならんと云つてゐる!」
 栄助は全てを否定するやうに叫んでから、自らが涙を零してゐることに気づいた。
 さうして否定して仕舞つてから、現実には鹿女の言ふやうにする他、方法がないことも知つてゐた。
 鹿女は子供をあやすやうに、それでゐて慈しむやうに目を細める。
「……楽しうございました。鹿女は楽しうございました。見やう見真似の掃除も洗濯も、罷り成らぬ針仕事も。あなた様に料理を振舞つて頂いたことも。夫婦にして頂いたときは、天にも昇る心持ちでございました。その全てが、私の正体などと云ふくだらないことよりも、私には、本当に、大切なことだつたのでございます」
 栄助には返す言葉がなかつた。
「――お撃ちくださいまし、栄助様。鹿女は、楽しうございました」
 黒々とした、見慣れた瞳は愛に揺れてゐた。
 森の中で銃声が一つ、そして遅れてもう一つ響いた。

 夜が近づひてゐた。
 銃声は確かに響いたものの、栄助も鹿女もいつまで経つても現れないので、到頭山狩りが始まつた。しかしどこにも、二人の姿どころか血の跡すら見つけられない。
「確り探せ。まだ遠くまでは行つてゐない筈だ」
 冷静な役人の檄が飛ぶ。金子に目の眩んだ例の男も、山に詳しいと云ふことで捜索に加はり、猟師の抜け道や獣道まで、必死に探し歩いた。しかし栄助も鹿女もどこへ消えたか、忽然と姿を消してゐた。
「あつ」
 二人は到頭見つからなかつたが、男は栄助の猟銃を見つけることができた。しかし、銃だけあつても何もならない。それに男は、銃に驚いたのではなかつた。
「こんなところに泉などあつただらうか」
 以前男が罠を仕掛けた場所であるから、見覚へはあつた。しかし、以前ここは確かに枯葉の積る地面であつて泉ではなかつた。
 泉は然程な大きさでもなかつたが、それでも随分と水は澄んでゐて――、何よりどこから飛んできたのか桃の花弁が緩やかな渦を巻きながら、浮かんでは沈んでゐた。
 何か手掛りになりさうな気もしたが、それ以上のことは男にも分らず、結局すごすごと戻つた男は役人から手酷い罰を受くることになつた。

 いつまでも桃の花弁が渦を巻くその泉は、時代が下がるに連れ神聖なものとして扱はれるやうになつた。曰く、桃の着物を纏つた女神と、深緑の着物を纏つた男神が現れると云ふことである。
 この二人は心中した男女であるとか、泉はその二人の涙と血とでできたとか、様々な噂も呼んだ。
 後世の研究では、人間の骨と鹿の骨とが折り重なるやうにして、泉の奥に沈んでゐることが分ったさうである。



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