異世界トランスレイター


 トラックに跳ねられたわけでもないのに彼女が異世界にいるのは、ひとえに仕事のためであった。
 近年日本にて増加している異世界転移者。彼ら彼女らのほとんどが転移後も何ら苦なく異世界人と話ができるのは備え付けの翻訳魔法やギミックのおかげであるが、ではその翻訳魔法やギミックに組み込まれている辞書と文法はどこから引用されているかというと、異世界言語の翻訳者、研究者の作成した、どのような異世界にも対応できるテキストデータからなのである。
 未だに魔法で直接相手の言葉を翻訳する世界もあるが、参照元のテキストデータを読み込んだ方が効率がいいと考える異世界では翻訳者の努力の結晶を使うようになってきている。
 異世界転移者の増えたのは日本であるため、日本語訳を急ぐ必要がある。そこで純然たる日本人の山中月夜が翻訳者として選ばれたのは何ら不思議でもない。
 ――その名前の突飛さを考えれば、彼女自身が主人公として選ばれそうでもあるが、当人はありがちなキラキラネームをつけた親の頭の中を疑いこそすれ異世界へ転移したいという意志は然程なかった。
 どちらかと言えば日本語の面白さに取りつかれていたので、唐突に与えられたこの責務を天職として受け入れてすらいた。
「ツキヤ君、お仕事の方はいかがですか」
「順調です。そろそろ戻れそうですね。――色々教えていただいてありがとうございます、先生」
「先生だなんてとんでもない」
 手を振って否定するのは紛うことなき日本人の男性である。短い黒髪に優しそうな黒目、そして丸眼鏡。少し特徴的なのは、その若さながら洋装でなく袴を履いた書生風であることだろうか。当然現代日本にもそういった趣向の服を纏う男性はいるが、窓の外を指折り数えられるほど闊歩しているということはそうない。
 要するにここは、明治時代をモチーフにした異世界である。眼鏡の彼も当然異世界人だ。転移者はこの世界で三角関係のヒロインとなるか、あるいはそのライバル令嬢となるか、はたまた日本を率いる立場になって現代の在り方を変える英雄になるかのいずれかであるだろうと推察される。
(もう少し、政治用語の調査をしていた方がよかったか――)
 日本であり、なおかつまだ言葉の通じそうな『明治時代』ではあるのだがそれはあくまでモチーフにすぎない。確かに似通ってはいるのだが『異世界』である以上言語に対する考え方が異なっていて、言語体系も大きく違っていることがある。
 無論、今回は元々が既存の世界をイメージして作られた異世界であったため翻訳は楽であった。月夜自身、独り立ちしてまだ日が浅いので、翻訳しやすい言語体系の異世界を任されることが多い。
 異世界は、人間の想像し創造するだけ存在している。
 当然言語も同じだけ存在している。
 ――それらを日本語へと訳すこと、何より相手の言葉を解読していくことの何と楽しいことか。
「あ、あの、ツキヤ君」
「あ、はい。すみません、ぼーっとしていました」
 男性の呼びかけに、月夜はそれこそ別次元へ転移していた気持ちを呼び戻して首を振る。
 しかし当然、初めはこのような微妙な意味を持つ呼びかけなども理解できなかったのだ。
 今やまるで呼吸をするのと同じように使いこなし、応じ、会話ができている。勉強の何と素晴らしいことだろう。何より丁寧に教えてくれる『先生』と出会えたことは何と幸せだろう。
 再び恍惚たる表情を浮かべそうになっていた月夜を引き戻したのは、男性のひっくり返ったような声だった。
「い、いいえ……、その、男子がこんなことを言うのもおかしいのですが。貴女はかぐや姫のごとく、元の世界へ帰られるのですよね。それではせめて。せめて最後に、よき思い出となるよう、僕と共にミルクホールに出かけていただけませんか」
「ええ、もちろん」
 月夜はそう答えながら、彼の目の奥に好意を読み取って、何とも言えない気持ちになる。
 悪しからず思っていた相手から向けられる好意に答えること、いやそれ以前に、本来転移してくるべき者の妨げとなるような特別な思い出を異世界人との間に残し、深い関りを持つことなどは翻訳者に難く禁じられた事項だ。
 それに何より彼のこの惚れやすさは、恐らく転生者の恋人として資質を持つ男性であるだろう。幾たびもの経験と勘がそう告げている。
「『ええ、もちろん。共にお出かけいたします。けれど私が元の世界に帰った途端、この世界にいるすべての人は、私のことをきれいさっぱり忘れるよう、翻訳者たる私は登録されているのですよ』」
「え――、今なんて仰いました。ああ、今の言葉がもしかして、貴女の元の世界のお言葉ですか」
「そうなんです。では、参りましょうか」
 ミルクホールくらいならいいだろう。
 異世界言語翻訳者。
 天職であると言えど、彼氏もできず結婚もできぬまま一生を過ごすのではないかと月夜は最近、不安を感じている。



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