あいのうた 古書店の老店主


 歌人を祖母に持つ少年の名は広樹と言った。
「やあい、嘘つき広樹」
「広樹の『き』は嘘つきの『き』!」
 ――嘘つきじゃないもん。
 大通りに不名誉な愛称がこだまして、わんぱくな悪童が彼をからかう小学校からの帰り道。広樹は背中に嘲笑を浴びながら無言で歩いていた。
 悪童の声は続く。
「お前のばあちゃんテレビ出てないじゃん!」
「ルミちゃんみたいに歌ってないじゃん!」
 でも歌人なんだもん――、仮にそう反論しようものなら「嘘つき広樹!」と笑声が一層広がってしまうことを彼はよく知っている。
 無言の抵抗。聞こえないふり、聞こえないふり。
 言われ始めた頃こそ必死に抵抗し、先生にも相談したが「がんばって言い返すんだ」と当てにならない。親にはそもそも、知られたくなかった。
 どうにもならない執拗な揶揄に広樹はいつしか根負けして、悪童らが寄り付かない古書店に隠れ夕暮れを過ごすことを日課にしていた。
 葉桜生い茂る並木通りから一本筋を入った所に、静かな古書店はある。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
 そこには柔和な笑顔を湛えた老店主が一人と黒猫が一匹。もはや顔なじみになってしまった彼らはいつでも優しく迎えてくれた。
 広樹はいつも真っ先に、古書店の中ほどにある近現代に活躍した小説家、詩人、歌人の書が置いてあるコーナーを目指す。――「ある恋の話 大橋佐和子著」。
(ほら、いた)
 祖母の名を見つければ、彼はようやく落ち着くことができるのであった。
(大橋佐和子は、おばあちゃんの名前だもん)
 ここにはたくさん、おばあちゃんの本がある。
 いつかおじさんは、おばあちゃんの本なら全部置いてあるって言ってた。
 ――ほら、嘘つきじゃない。
「広樹君、お茶でも飲むかい」
「いいの? いただきます」
 家族のいないらしい老店主は、まるで自分の孫のように広樹を可愛がっていた。そこにはからかわれている内気な広樹を庇うような、弱いものに特別目をかけるような情けの気持ちもあったかもしれないが、それでも広樹は店主の温かさに救われていた。
 会計机の裏は畳敷きで、そこから薄手の暖簾を挟んで老店主の居室に繋がっている。広樹は畳の上がり框にちょこんと腰掛け、熱い茶をふうふう言いながら啜った。ほうっと放たれた息と共に緊張が解け、やがて再び幼い表情に影を落とす。
 老店主はあえて声をかけようともせずに雑事をこなしている。太陽は橙に移りゆく。黒猫がにゃあと鳴いた。
「ねえおじさん」
「うん?」
「何でおばあちゃんテレビに出ないの」
「お嫌いなんじゃないか、そういうのは」
 老店主は悪童たちのように祖母の職業を否定しない。広樹は続ける。
「『かじん』って歌を歌う人なんだよね。じゃあ色んな番組に出ないといけないんじゃないかなあ」
 ルミちゃんみたいに。あるいは、白雪姫の何とかちゃんみたいに。
 真剣な広樹とは対照的に、老店主は目を見開いて笑った。
「ははは。大橋佐和子、アイドルデビュー! か。色々なメディアが騒ぎそうだなあ」
「もう!」
 思い通りの答えがもらえなかったことに拗ねて見せる彼の表情を慈しむかのように、老店主は口の端を緩める。そして少し考えた様子の後、茶を一口だけ啜って立ち上がった。
 「少し待っているんだよ」、呟くように告げて奥へ引っ込み、やがて一冊の書物を手に戻ってくる。
「広樹君、これを見てごらん」
「なに」
 未だ機嫌の直らないらしい少年を甘やかすような微笑みのまま、老主人はあるページを指し示す。
 ――振り仰ぎ 広がる青葉よ 若人よ 花こそつけよ 幹よ伸ばせよ
「この、新しい命に出会えたことを喜ぶ歌は君のことだね。八、九年ほど前かな。お祝いと一緒に文芸誌で特集されたんだ」
「……よくわからない」
「じゃあこの字に覚えはないかい。『広』。葉を広げる樹と君の名前を掛けているんだよ」
「……」
 短歌はまだ広樹に理解はできなかったが、それでも祖母が広樹の名前をここに記してくれているということが、そして記された本を大事にしてくれる人がいることだけはわかって、いくらか安心を得られた。
 広樹の「き」は嘘つきの「き」!
 ――嘘つきじゃないもん。
 自分の名前を見つめているらしい広樹に老主人はなおも語りかける。
「佐和子先生は素晴らしい方だよ。まだまだ閉鎖的な時代に、女性同士でサークルのようなものを組んで本を出したり、活動的だった。それで女性の間に短歌が流行ったりした。テレビやラジオに出るなんかよりももっとすごい功績だと僕は思うけどね。広樹君が大きくなって大学に入ることがあったら、そこらにいる教授をつかまえて聞いてごらん。中には君に話を聞きたがる先生だっているかもしれないよ。本当にすごい方なんだ、僕は尊敬している」
 いつになく老店主が饒舌なのは、どうやら広樹を励ますためだけではないらしいと、広樹自身も感じ取っていた。とはいえ幼い彼には、老店主の心持ちが如何様であるのかまでは分かり得なかった。
 ただ熱を帯びた店主の瞳の内に太陽を見た。
 じっと見いっている内に、入り口の方から広樹の待ち望んだ声が聞こえてきた。
「ごめんください」
「おや、お迎えが来たようだ」 
 人懐こい黒猫がにゃあにゃあ鳴きながら出迎えに行く先には、薄緑の和服を着こなし、しゃんと背筋を伸ばした老齢の女性が一人立っている。老店主は眩しそうに目を細めた。
「おばあちゃん!」
「広樹、おかえり。……毎度毎度お世話になり、本当に申し訳ございません」
「いえいえ、大橋先生。悪ガキなら商品にも触らせませんが、礼儀正しい子ですので」
「とんでもないことでございます……」
 大人同士のやり取りを終えると、暇を告げて佐和子と広樹は去っていった。孫は祖母に甘え、祖母は慈しむように孫を見つめている。
 去りゆく姿を黒猫と共に見送りながら、夕陽に照らされるその情景全てを愛おしむように、老店主は呟いた。
 ――茜雲 木かげ伸びるや 路の先 薄緑なる 背ぞ懐かしき



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