憧憬は麻薬にも似た 4


 丸山栄に弟がいるのは事実であり、その名が「エイジ」であることも「ミーハーを拗らせた」徹は当然知っていた。
 一般人である「弟」の今の顔までは知らないが、幼い頃の家族写真をバラエティ番組で公表していたこともある。
 だから喫茶店で働いている彼「角山英二」の存在自体は嘘でない。
 ――その同じバラエティ番組で、丸山栄の妻の顔は知っていた。こちらも一般女性である。逮捕のすぐ後に離婚したことは随分と騒がれた。
「見たのはかなり前だし、もう捨ててるか」
 埃をかぶった徹の部屋の棚には、大学時代の残滓と、何となく取っておいた雑誌とが混在している。
 憧れて憧れて仕方なかった時代と、やがて飽きかけて、それでも意地で彼を追い続けていた時代と、もはや憧れていた時代など忘れてただ懐かしさで彼の載る記事を何となく取っておいた時代と。
 必死に探そうとしている間に疲れてしまって、徹は大きくため息をつく。そのまま床に転がった。
 床はひんやりと冷えていた。
 ……俺は、何をしているんだ。
 いつも幻想に魅せられては熱に浮かされて、やがて身にならないまま諦める癖は変わらないようだ。
(熱が頂点を迎えると飽きてしまうんだな、俺は)
 自嘲しつつ、叱咤しつつ棚を片づけて、バカらしいことをしていたものだと笑った。
 きっと、嘘をついていると分かりながら採用した時から自分はどうかしていたのだろう。
 若い頃の憧れの残滓に魅せられて、彼が復帰するストーリーを頭の中で幻想し、その幻影に溺れた。
 ――幻想は麻薬だ。憧憬も麻薬なのだ。
「あ」
 顔に伏せていた雑誌に、目当ての記事を見つけた。
 だが徹個人の行き当たりばったりな捜査より、当然ながらプロの方が早かった。

 英二が「休みます」と連絡をしてきたその翌日に発売された週刊誌には、小さいながらも丸山栄のその後が載っていた。
 一般人となった丸山栄は亡くなった弟の名を騙り、アルバイトを転々としながらアマチュア劇団へ入ったらしい。
 もはや若者にウケもしない記事でもあるし、押しかけ客はそう多くはなかったが、それでもバイト先たる徹の喫茶店は一時休業せざるを得なくなった。
 休みの間、徹は狂ったようにビデオや雑誌を見漁っていた。
 薄々感づいていたとはいえ、現実から目を背けていたかったのもある。
 彼の作り出す虚構へ、浸りたかったのもある。
 だが理屈より何より、確かに忘れていたはずの過去の幻影を見たくて堪らなかった。
 それこそまるで麻薬中毒者のように、しかし一種の意地であるかのように、日がな一日、徹は彼の映像を見続けていた。
 
 休業はおよそ三週にわたった。
 世間のほとぼりが冷めたころに店へ行くと、郵便物の中には英二の謝罪と感謝と、給料は不要なので店に迷惑が掛からぬよう辞めさせてほしい旨を書いた手紙が入っていた。
 便箋には「丸山栄」との署名があった。
 直筆サインなど、憧憬の当時であれば喉から手が出るほど欲しかったのではないかと、冷めた頭で徹は考えていた。
 一方で、週刊誌が暴き立てたくだらない現実が急に実感を伴って目の前に現れたような、ぞっとした気分も立ち上ってくる。
 他方では、短い期間ではあったが自分は憧れていた人間と確かにここにいたのかという実感も沸いてきて、要するに徹は感情を持て余していた。
 ――彼はここで「角山英二」を演じた。
 その演技を間近で見ることができた。
 騙されたはずなのに、それが何よりも慕わしい。
 手紙には、再び演劇に触れるきっかけを徹が与えたかのように書かれていたが、そんなものがなかったとしても彼は生まれつき役者であったのだろう。
 徹とは違い、麻薬のような幻影に身を投じ続けることができる人間であり、その才もあった。
 薄々、本能的には彼が栄だとどこかで気づいていたのに今までそこへ触れなかったのは、きっと今まで彼がここで演じた「角山英二」に、彼の芝居に魅入られていたからだ。
「何だ?」
 末文には公演のチケットを同封するとの言葉があった。
 団長であるところの徹の友人が、時期はずらすにせよ公演を決行することにしたらしい。
 公演の予定日は本日であった。

 店内の掃除を手早く終え、気に入りの音楽を流す。面接の募集をかけてみたが敬遠されているのか、英二の後釜はそう容易く見つかりそうになかった。
 この喫茶店に来る人間は元々そう多くないので、急ぐわけでもないがそれでも昼はそれなりに忙しい。
 来店の鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ。……お」
「よう」
 徹の旧い友人はカウンター席に腰掛けて、そわそわとメニュー表をめくる。言いたいことがあるのは一目でわかった。
「新しい商品が加わってるだろう」
「……ああ」
 気のない返事が静かな音楽に交じって聞こえてくる。
 とうとう友人は顔を上げ真っ直ぐに徹を見据え、恨みがましい言葉を静かに、だが強い口調で放った。
「何で来なかったんだ」
「はは。いつもそんなに行ってないだろう」
 徹は言葉も情熱も受け流す。
「ミーハーを拗らせただけの俺は、お前みたいな情熱がないんだ」
 子供がヒーローに憧れるのと変わらない。
 かつて追いかけていた人間の一大ショーを見、本人とも少しばかり演技のようなやり取りをすれば、老いた自分はもはや満足だったのだ。
 身近で栄演じる「英二」を見た。「かつて憧れていた俳優と邂逅した人間」を熱に浮かされるまま演じた。
 演技への興味を聞いてみせたのも、憧憬を語って見せたのも、舞台チケットという小道具の用意も初めから「こうなりはしないか」という脚本がうっすらと頭にあったからだ。
 思い通りになったことは何より楽しかったが、終わってみればただの芝居でしかない。
 徹にはそれで充分であった。
 薬物所持で逮捕された俳優には確かにかつて憧れていた。
 しかし、何故彼に憧れていたかすら忘れていたのも事実で、彼への憧れは今、どこか乾いてもいた。
 まるで芝居のようなストーリーを体感できていることが楽しかっただけだ。何も本物の芝居を観て感化される必要は感じなかった。
「俺はすっきりしてるよ」、一芝居終えて。
 元来、何事であってもうわべにしか興味はない。
 本気で人生を演じている彼らとは違う。
「……」
 旧い友人は、理解しきれないものを見るような目で、徹の冷淡な表情を見つめていた。



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