ああ、どうもいらつしやい。この頃よくお出ででござんすね。
 えつ、裁判の。さうでしたか、取り扱ひはさう多くもございませんが……、おや、本はご不要ですつて。
 ……はあ、私の話。私の話をお求めで。
 さうでござんすか、あまり得手ではございませんが、それではひとつ昔話でも致しませう。
 長い割に實の無い話でござんすよ。紅茶はお好きでいらつしやいますか。遠慮なさらず。飛びきりの品でございます。


僞者インテリゲンチヤ

 昔々、大昔、この向ひにはですね、あまり活溌でない古本屋が建つて居りました。
 私は未だ學生の時分でございましたが、分りもしない難しい文學の本なんざ買つて、一丁前のインテリゲンチヤの顏をしてゐたんでございます。
 え、買ふだけで飾るんでございます。飾つておいて、適度に栞などを挾んでおく。挾んだ頁だけ讀んでおいて、人に問はれた時には「何處此處が面白かつた」なんぞ言つてやれば、インテリゲンチヤの完成でせう。
 ただ、そんな僞者インテリゲンチヤにも唯一面白く、讀む氣になつた本がございました。ほら、××先生つて仰るんですけど、汽車猫の話――、ああ、ご存じないやね。もう隨分前の人だものなあ。
 まあともかくも、その人の本だけは町の書店にないくせにその古書店には潤澤にあつたものでございますからずつと立ち寄つて居たんですよ。
 さうしたら到頭店の主人に顏を覺えられちまゐましてね。まあ、この主人がまた氣難しさうで、イエ實際氣難しいんですけど、ゴツゴツの岩に般若をくつ付けたやうな顏をして居りました。
 で、その、ゴツゴツ岩の主人が言ふのです。
「あんたが××ばかり買つていくからうちではそろそろ賣る本がなくなつちまひさうだ」
 叱られたのかと思ひましたけれど、よく考へれば私はお得意樣になつて居つたんですな。それに何より、般若の面に少しだけ、嬉しさうな色が浮かんでゐるではないですか。
 ははあ、これは仲閧見つけて嬉しいのだな、と思つた私は乘つてやることにしました。 
「それは面白いことを聞きました。讀んじまつたのをうちから何册か持つてきて、賣つて差し上げませうか」
「ここで買つた本をここで賣る馬鹿があるか」
 にやにやと、嫌な笑ひ方でしたけどね。それでも初めて表情の動いたのを見ましたよ。
 その次の日からですかね。その店に立ち寄れば話しかけられたり、一服どうかと氣取つた紅茶を勸められたりし出したんですな。ええ、今ぢや貴方に勸めて居りますが最初は紅茶など氣取つて居ると思つてゐました。しかしどうです、あの、ふはふはした赤色の葉に湯を注いで作る手閧ニ云ひ、少し藥臭ひ樣な異國の味と云ひ、何とも云へない知的雰圍氣があるではありませんか。え、お分りになります。さうです、その氣取つた態度が私のインテリゲンチヤ志向にぴつたり來たのですよ。
 家で飮む茶なんぞ、それまでねえや、ばあやに任せて居りましたから餘分に、淹れる手順が何となく美しく見えたのでせうなあ。
 ああ、話がエれましたやね。まあ主人にそんな氣に入られ方をして、ふらふら立ち寄つてゐたある日でございますよ。目ぼしいものはないか探して棚の閧うろうろしてゐた私目掛けて、どすんと一册の本が落ちて來やがつたんですね。
 ――どんな本だつたかですつて。まあ、辛抱してしばらくお聞き下さいまし。
 私は痛めた頭を擦り擦り、痛いぢやないかなんて文句を言ひながら、とかくも主人に、本の落ちてきたことを傳へて、落ちてきた本を預けたんですな。そしたら目を大きく開いて、「何處で見つけやがつた」なんて聞くもんですから、ああこいつは失せ物だつたんだなと得意になつて、
「落ちてきたんですよ。あの棚の邊りです」
 さう指差したんですよ。
 しかしですね。おかしなことに、その邊りに棚なんぞない。ああ、場所を誤つたかなと思つて見渡すと、その古書店の本棚つてのは揃ひも揃つて背の低いものばかりなんですね。私の腦天に本が落ちてぶつつかる程の棚がないんです。さう言へばゴツゴツ岩の主人はずんぐりむつくりで背も小さいもんだから、棚もさう高いものは置いてゐないと何かの時に言つてゐたことも思ひ出して、おかしいな、おかしいなと思つてゐると、ずつと默つてゐた主人が言ふのですよ。
「こいつはやらう。持つて歸りな」
「えつ。貰へませんよ」
「いやョむ、持つて歸つてくれ。代金は要らないから」
「はあ、しかし、この本は中身が無いぢやないですか。何を讀めと言ふのです」
「書いてゐないか」
「え、何も書いて居りませんよ」
「さうか。さうなら、尚更、ョむから、持つて歸つて呉れ。俺にとつてはまたとない機會なのだ」
 そこからは持つて歸れ、貰へないの押し付け合ひでござゐましてね。到頭私は少し怒りながら、「要りません。第一、この本は何なのですか」と訊ねたのです。
 だつて貴方、本の裝釘こそは立派な革表紙でございましたけれど、中身はただ、薄汚れた紙束が詰まつてゐるだけだつたのでござんすよ。文字の一つ、繪の一つも有りやしない。まあ帳面代はりには成つたでせうけれど、さう考へれば貰つても良かつたのかもしれないのですけれど――、流行りの言葉では第六感シツクスセンスとでも言ふのでせうか、落ちてくる筈のないところから落ちてきたその出自と云ひ、どことなく妙な主人の態度と云ひ、貰つて終ふには引つ掛かりがございましてね。默る主人に私はもう一度問ひ質しました。
「この本が何だと言ふのです。どうしてさう押し付けるのですか」
 私の質問に、主人は喉に魚の骨でも詰まつた樣に押し默りましてね。ただ、その不思議な態度にどこか「面白さうだ」と思つてゐた、不思議を期待しそはそはしてゐた、反インテリゲンチヤの自分も白状せねばなりますまい。そんな、怖さ半分、期待半分で返事を待つてゐますと、主人は勿体ぶつて答を吐きだしました。
 ――曰く、不老不死の祕術書だと云ふのですな。
 腹を抱へて笑ひさうでございましたよ。不老不死の祕術書、不老不死の祕術書でございますよ。ああ、おかしい。不思議を期待こそして居りましたが心の裡で期待するのと実際に耳にするのとは聞えが違ひますやね。実に馬鹿々々しいと、ええ、さう、自らを以てインテリゲンチヤを任ずる私への挑戰に違ひないと思ひましたね。
 大昔の大陸の皇帝や竹取爺の頃であればともかく、この、文明開化から半世紀も經つた時代に何を言ふのでせう。揶揄はれてゐるのかとも疑ひ、いつそ大聲で笑つてやらうかとも思ひました。私がそんな風なのを覺つたのでございませう、主人は本の來歴を斯う語り出しました。
 曰く、この本自體が不老不死の祕術であり、持ち主を選ぶのださうです。選ばれた人物はその本を持つてゐる限り老いもしなければ死にもしない。本は叩ひても燃やしても壞れない、失くさうと思つても失くせない。萬一失くなつたら、それは持ち主も亡くなる時であり、次の持ち主のもとにその本は行くと。そして本の中には、持ち主本人にしか讀めない、持ち主の過去、現在、未來を全てを描いた一代記が載つてゐると。
 え? ええ、その通りでござんすよ、こんな三流小説にもありさうな、月竝みな話は全くの嘘でござんした。ほら、私は持ち主に選ばれた割にこんな禿頭の、よぼよぼの爺さんでございませう。不老なんかぢやございません。ひとの話なんぞ、やはり話し半分に聞くものですね。
 ゴツゴツ岩に般若の主人も、顏こそ醜惡なれど別段不老不死の樣な雰圍氣はございませんでしたからね。第一、帳面の樣な斯んなしよぼくれた本に然程な效果がございましたら、美しい文に美しい插畫の××先生の本なんざ、いくら壽命が伸びても足りないではありませんか。
 まあ、ただ不思議なことはあるものでございましてね。私が到頭押し負けてその本を押しつけられた翌日のことでございますよ。
 馴染みの古書店はあつさりと、ゴツゴツ岩の主人と一獅ノ灰に成つて居りました。
 火事? 火事なんてありはしません。文字通り灰に成つて居つたのです。火事なんてないのに、昨日まで古書店のあつた敷地には、ふはふはした赤茶けた灰が、ただ薄すらと地面を覆つて居る許りでございました。
 その、どこか非文明的な出來事に、光景に、心惹かれたことを覺えて居りますよ。はは、中中に反インテリゲンチヤ的ではござゐますがね。
 お話が長くて相濟みません。おや器が空だ。お替りは如何です。

 手に入つた本でございますか。ええ、まあ若氣の至りと言ふところでお話しするのも恥づかしいんでございますけれども、ひとつ實驗をして見やうと言ふ氣になつたのです。と言ふのも、折角曰くつきで手に入れて、建家の消えると云ふ不思議な目に合つたのですから、文明人として、僞者と言へインテリゲンチヤとして、不思議を解き明かすのが責務であらうと思つたのです。
 親爺の言つたことが事實だつたのかどうかは結局分りませんでした。その本は相變はらず何にもない帳面のままでございましたから。え、それぢやあ話が合はないつて。確かにお伽噺であればこの不思議の本に私の來歴と明日とが描かれ始めなければ詰りませんな。しかし事實はただの帳面でございましたよ。マア、鋏は通さない、金槌で叩いても壞れない不思議の本であることは確かでございましたな。ほら、ひとの話は話し半分に聞けと言ふでせう。まさに半分は正しかつたのです。
 ぢやあ、燃やしてみればどうなるのだらう、これが私の、インテリゲンチヤの行きつくところでございました。
 ただこの思ひつきには、謎などないことを證明をしてやると云ふ文明的な責任感だけでなく、僞者インテリゲンチヤ特有の、反文明的な期待がございましたことをもう一度白状致します。私は少しばかりこの書物に夢を見て居つたのですな。氣心知れた友でもあつた主人と共に、思ひ出の本屋も消えた、あんなに不思議なことが起きたのだから、きつと竹取爺の話に出てきた天竺鼠の皮衣の樣に、火を避けるのではないかと期待したのです。まあ、また、そのう、――正直を申しますと、あの赤茶けたふはふはした灰。建家が燃えたときの灰ですな。枯葉のやうなあの灰に、私はどうも魅入られて居り、今一度見ることはできはしないかと思つたのです。

 結果として、私は本を燃やすことに成功致しました。え、簡單に燃えました。文明の、インテリゲンチヤの勝利でございました。さうして赤茶けた、ふはふはした、枯れ葉のやうな灰を手に入れたのです。ですが、どうもその……、灰を見てゐるうちに欲がむらむらと沸き上がつてきましてな。この紅茶にも似た灰を我が身に入れたいと。灰を飮んで仕舞ひたいと。
 ええ、遠慮なさらずお笑ひください、輕蔑ください。所詮は僞者インテリゲンチヤのやることでございますから。
 味ですか。飛びきり美味で、それでゐてどうしてか、ゴツゴツ岩の主人のことを思ひ出しましたな。
 それからどうしたかつて。何もありませんよ。お話は以上でございます。これだけのことでございます。現實にそんな不思議がいくつも轉がつてゐるわけございません。怪奇とインテリゲンチヤとで後者が勝つた、文明が勝つた、さう云ふお話でございますよ。
 さて、いかがでしたか、ご所望に添へましたか。新鮮味もなく詰らん話でしたでせう。え、裁判の參考に。私のこんな與太話が裁判の參考になるわけございませんでせう、揶揄ひなさいますな。さう言へば一體何の裁判で――、え、閻魔樣の。ああ。ああ、さうでしたか。閻魔樣のお裁きでございましたか。私の、私のでございますな。お迎へが來たのでございますな。貴方は獄卒樣で。ああ。さうでございますか。ああ。それはよござんした、お待ちして居りました。
 實は答へ合はせをしたかつたのですよ。ねえ貴方、きつと貴方はゴツゴツ岩の主人の同僚ではないですか。さうでせう。私の、初めてできた趣味を同じくする友は、獄卒樣のお芝居だつたのでせう。これは巨大な實驗だつたのでせう。この本はきつと世に何册もあつたのでせう。人が、自らを不死と信じた時にどう生きるか反應を知りたかつただけでせう、だからさう聞かせて寄越した。本を渡した。前準備の濟んだから本屋を消した、私は實驗臺だつた。違ひますか。
 ええ、半分正解ですつて。あ、不死の力を飮んで仕舞ふのは豫想外。さらに茶を客に出すは豫想外、もうひとつ本當に不死の本が渡つてゐたのは大ひなる手違ひ。私が本當に不死になつてしまつたからしよつ引きに居らした。さうでしたか。ゴツゴツ岩の主人め、氣心知れた我が友め。何たる阿房か手違ひか。あの世で拳骨喰らはせませう。まあ、最期に面白い話が聞けて何よりでございます。
 開業してから四百餘年、世からは紙の本がほとんど消へ去つてゐると云ふのに――、家業を續けるのは辛うござんしたからなあ。
 さて、ま、もう一杯だけ、紅茶は如何でござんすか。ええ私と同じでいつまでも味の變らない、いつまでもなくならない、飛びきりの品でござんすよ。



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