ヒカルノキミ


 憧れていた彼女の子ならば、きっと愛せると思ったのだ。
 咲は年々、彼女に似ていく。
「透さん」
「何です」
 自分の名を呼ぶその声音など、恐ろしいほどに似ている。
 ただ、それだけだと断じてしまっては、この関係がずいぶん味気ないものになってしまうような気がする。
 透は書類に目を通しながら、昔に思いを馳せていた。
『片山くん』
 そう呼ぶ声の調子は、未だに覚えている。
 彼女は、高校の数学教師だった。
 きっと純粋で、感受性も豊かで、恋すれば心の中が恋で埋め尽くされる年齢だったこともあるだろう。
(……)
 今では考えられないほど純粋に、彼女に恋をしていた。
 何故好きだったのか。誰でも年上に憧れる時というのはあるから、きっとそれも要因の一つだったのだろう。
(そんな理由などは後づけか)
 ただ彼女の仕草が、表情が、強烈に焼き付いて数年の間離れなかったのだ。
 想いを告げたことはない。ただ憧れ、ただ焦がれているだけだった。
 初恋という言葉は知っていたが、それを実感したのは彼女が結婚し、退職したときだったように思う。
 苦く淡く散っていった恋だったせいか、いつまでも心のどこかに残っていた。
 だからこそあの時、父の話を断れなかったのだろう。

 目指していた弁護士の資格を取るべく、必死に勉強して大学受験をも乗り越えた。
 何度か恋を経験して、彼女のことが切ない思い出に変わっていき始めた頃、父親がある話を持ち込んできた。
「透、聞いてほしいことがある」
「はい」
「お前に結婚の話があがっている」
 大学生になったばかりの頃だった。
 あまりに唐突な話に、透も母も二人の兄も硬直していたのをよく覚えている。
 少し長い沈黙の後、返答を求める周りの空気に耐えかねて、透は静かにつぶやいた。
「……僕はまだ、就職もできていません。早すぎませんか」
「ああ、何も今すぐではない。将来的にだ、言うなれば婚約だ」
「はあ」
 ずいぶんと時代錯誤なことを言い出したものだと、透はぼんやりするほかになかった。
「お前も知っているだろう、河野さんに娘さんが生まれたそうで」
「……」
 父親の言葉の真意が理解できずに、透は眉間にしわを寄せる。
 赤ん坊と結婚しろと言うのだろうか。
「政略結婚みたいですね」
「何も時代劇のように、強制というわけではないさ。だがせっかくだからな、いずれは、という話があがっている」
(……かわいそうに)
 何も知らない赤ん坊をそんな話に巻き込むだなんて、かわいそうだし、何より常識がない。
 加えて、見知らぬ存在との結婚を勝手に進めようとする父親に、透は反感を覚えた。
 透の感情は口に出すより前に表情に出ていたらしく、父は取りなすような口調になる。
「祥子さんの娘さんだ、きっと美人で気だてもよくて頭のいい子になるだろう」
「祥子さん?」
 初恋の人と同じ名前を出され、透は一瞬面食らった。
 父親はさらにたたみかける。
「そうだそうだ、祥子さんに聞いたがお前、彼女は高校時代の恩師だというじゃないか」
「ただの教科担当ですよ」
 突き放すような言い方をしながら、彼女がただの教科担当でないことは、透自身が一番よくわかっていた。
 全く興味がないと言うのには語弊があった。彼女の子が、どのように育つのかも気になった。
 なにより、卑しい考えが頭の中をよぎらなかったわけではない。
 古典物語のある場面が、浮かんで消えていった。
「うちの銀行と、河野さんの会社との結びつきをということですか」
 大義名分もある。卑しい考えだけではない。
「そういう言い方をしては、咲ちゃんがかわいそうだろう」
 「かわいそう」の言葉に、透の心は少しだけ揺らいだ。
 できるだけ表に出さないようにつとめながら、父に問い返す。
「……咲?」
「相手のお名前だ」

 相変わらず、解けない問題に四苦八苦しているようだった。
 あれから何年が経つのだろう。咲は年々、彼女の面影とは遠ざかっていく。
 だがいつの間にか、そんなことは些細な問題にしかすぎなくなっていた。
「君は普段素っ気ないのに、どうしてこういうときだけちょっかいをかけるんですかね」
「素っ気ない……ですか」
 今、何よりも気になるのは、この感受性豊かな婚約者が、何か他のものにとらわれてしまわないかということだ。
「ええ。メールの返事も遅いし、こうして家に来るのも稀だ。しかも仕事が忙しいときばかり」
「ごめんなさい」
 いつか、誰かと出会って自分以外に恋をしてしまわないか。
 いつの間にかそのような感情を抱くようになっていた。
「学校は楽しいですか?」
「はい」
 笑顔で答える咲に焦りすら覚えている。
 ゆっくりと、少女から女性になっていく彼女との距離を、もう一歩詰めるべきかどうかずっと迷っている。
 しかしその前に、咲がこの関係をどう捉えているのか確かめたかった。
「……終わったら出かけますか? 夕食はまだでしょう」
「はい」
 穏やかに笑顔を咲かせる彼女の心に、恋の形で感情は育っているのだろうか。
(嫌な大人だ)
 透は眉根を寄せた。かわいそうだなどと思ったくせして、いつの間にか咲に焦がれ始めている。
 咲に似た人に憧れていたから、咲と婚約を結んだ。初めはそのはずだったのに、いつの間にか咲自身に惹かれている。
 虫のいい話だ。それなのになお、この幼い婚約者を手放す気にはなれない。
(……)
 いつか問われたとき、この婚約に隠された自分の心を偽りなく答えられるだろうか。
 透は咲を見つめながらふとそんなことを思った。



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