春の山、鹿の骨 4


 栄助は代々の猟師であつたから、捌ひた獲物を里で売り払ふことで生計を立ててゐた。生まれた頃から、この方法以外の生き方は知らぬのであつた。母は幼い頃に別れたきり、どこかで死んだと聞いた。生き方を全て教へてくれた父は栄助十五の頃に、足を滑らせ崖から落ちて終つた。
 栄助はこの十数年、家に一人ぽつちであつた。
 家族と云ふものにも会話にも、人にも飢ゑてゐたから、仕事などなしにして家族のやうに、亀と会話をするのは何より楽しかつた。
「栄助様。今日は里で反物を貰ひました」
「へえ、俺に審美眼はないけれど、それでも鮮やかな桃の色だね」
「今度、ひとつ仕立ててみやうと思ふのです」
「針も刃物だらう」
「針は。針は小さいので、何とか」
 さう云ひながらも少しだけ脅へてゐるやうな亀の様子が愛らしく、栄助はくつくつ笑ふ。不満らしい亀はむすつとした表情を見せた。
 夕餉の済んだ刻のことであつた。
「意地のお悪い笑ひだわ」
「いや、あんまり可愛らしいもんだから」
「もう――」
 人に飢ゑてゐたから、斯うして会話を交はせるだけで充分であつた。家族の増へた、それだけで充分なことであつたはずだが、昨日訪れた男の冗談がどうも頭に去来する。
(あの野郎)
 栄助は当然、亀を嫌ひでない。亀も恐らく、栄助を嫌つてはゐないだらう。
 だがしかし、彼女はただ、一晩の宿を乞ひに来ただけなのである。行く宛てがないから匿つてゐるだけなのである。だからこそ、それを口実に恩を着せて嫁に迎ふることは、一体手籠めにするのとどう違ふのだ、と云ふ気持ちもあつた。
 亀は美しい反物を、小ぎれいになった部屋の奥の棚に置く。振り向くと、につこりと栄助に笑ひかけた。
 もしこのまま、彼女を娶ることもない儘であれば、きつと彼女は里かどこかで働き口を探して嫁に行くのだらう。
 さうなれば、また元の通り狭居に一人ぽつちである。
 彼女の美しさを、孤児に訪れた束の間の幸ひを何れ手放さねばならないなどとは、考へ度くなかつた。
「どんな着物に致しませう。あんまり難しいのはできないかも知れないですけれど」
「……お亀さんなら何だつて似合ふさ」
「まあ」
「……」
「……栄助様?」
 栄助の凝つと考へ込んでゐるのに気付いたやうで、亀はそのまま栄助の傍に座り寄る。
「お加減が悪うございますか。どうなさいました」
「……お亀さん」
 栄助は、肩に置かれた白い手に自分の手をそつと重ねる。
 亀は驚ひたやうだつたが、振り解きはしなかつた。そのまま、黒々とした瞳で、凝つと栄助を見つめてゐる。
 互ひの手が、熱を持つてゐることが分る。告げるべき言葉を探しながら、栄助は覚悟を決めかねてゐた。
「なあお亀さん。あんたが来てもう大分になるのだな」
「ええ、さうでございますね」
 亀は戸惑ひながらも笑つて見せる。そして何かを思ひ返すやうに遠くを見つめる。
「本当に、絶望して居りました。絶望してゐた時に、栄助様がお助けくださつたのでございます」
「大したことはしてゐないだらう」
「いいえ。そんなことはございません。亀はあの時、絶命するほかなかつたのでございます。しかし栄助様がお助けくださいました」
 黒々とした美しい目で亀は栄助を見つめる。
「助けていただいた方と斯うして過ごすことのできるのは、何よりの幸いなのでございます。亀は、栄助様のためであれば――」
「亀」
 栄助は言葉を遮る。男の意地でもあつた。
「――、夫婦になつてくれないか」
 思ひ直すこともできただらう。しかし栄助は到頭震へる声で告げて仕舞つた。今一度、孤独の寂しさに立ち返つて生きていくことはどうにもできさうにないと思へば告げずに居られなかつたのもあるが、亀と想ひの通じ合つてゐるのを確かめたかつた。
 ああ、しかし、云つて仕舞つた。
 神域を犯したような畏れが栄助の裡に立ち上つてくる。しかしそれは一瞬のことで、亀の目が見る見るうちに喜色に満ち溢れて行くのを見た途端に霧散した。
 ああ、思ひ違ひでなかつたと今漸く実感するやうな気がした。
 亀は、ぎゅっと栄助の手を握り込む。
「亀は、私はずつと、ずつとこの時を待つて居りました」
「さうか――、もし、拾はれた恩で云つてゐるのなら――」
「いいえ、いいえ。恩だけではございません。もちろん恩もございますが、それだけでも」
 お転婆な亀は栄助に飛びつき、栄助ごと床に転がつた。
「それだけでもございません。初めは恩を返す積りでございました。けれど共に暮らす内、欲に溺れぬ栄助様のご誠実と、何よりその優しさに、私は惚れ込んだのでございます。どうかお願ひでございます、どうか嫁にしてくださいまし」
「ああ、ああ――、よかつた」
 十五の頃から一人で過ごしたこの狭居。これからは死が二人を分かつまで、ずつと二人で居られるのだ。生涯離れぬ道連れができた。人に飢ゑてゐた自分は、もう飢ゑなくてよくなつたのだ。
(親父よ、俺は所帯を持つたぞ――)
 栄助は亀を抱き締めながら、幸せを噛み締めてゐた。
 その日から、二人の寝所は一緒になつた。

 夜半。玄関先で苛々してゐる役人に、男は叱責を受けて小さくなつてゐた。
「絶対に見つけられると云ふから前金を渡したと云ふのに」
「面目次第もございません」
 ひれ伏して土間に頭を擦りつける男にため息を吐き、役人は続ける。
「お前を斬つて手掛りが手に入るならさうもしてゐるが、残念なことにさうではない。何か少しでも掴んでゐるやうなことはないのか」
「へえ――」
「あるのかないのか」
「いえ、まだお耳に入れられるやうな、確かなことではございませんで」
「成程。何かは掴んで居るのだな」
「へえ――」
 地に頭を擦りつけながら、男はにやにやと意地の悪い笑ひ顔を浮かべてゐた。



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