A博士は慣れないスーツを身につけることに戸惑っているようだった。 「B君、私はあらゆる本物の食事を愛している。しかし実体のない概念の食事は愛していないのだよ」 「はあ」 奇人には勿体ないような、仕立ての良いスーツを準備しながらB君は曖昧に相槌を打った。 屁理屈学第一人者たるA博士はその物珍しさと立場から食事に誘われることが多かった。 無論、その誘いの多くは、自前の屁理屈と偏屈とで断りに断りを重ねているのだが、中にはA博士の重大なパトロンもいる。 パトロンの強い頼みは、A博士の屈強な理屈でも断れない。 「ネクタイはこれでよろしいですか」 「B君、私は」 「これにさせていただきますね」 「……ああ」 いつも強気なその蛇に似た顔も、今日はどこかしょんぼりしている。 「B君、私は味のしない食事は愛さないのだ。概念たる食事は腹を満たさず、ただ脳を不快で満たすばかりではないか」 「美味しいと評判のレストランですよ」 「無論、食事のために訪れるのであれば今日のレストランは考えられうる限り最高であるだろう。しかし今日は食事をしに行くのではない。ものを食べるのではない。食事という概念を食べに行くのだ」 「はあ」 B君は勤め人時代を思い出して聞いた。 「仕事の話でもなさるのですか」 「いいや、しない」 「苦手なお相手様ですか」 「いいや、小さいことにこだわらず鷹揚で、気の良い人間だ」 「気を遣うのですか」 「君は今までに、私の気遣いを見たことがあるかね」 「……」 答えかねて黙るB君にA博士は悪癖たる演説を始める。 「食事とは自らの腹が減った時に、自らの食欲に基づいて、自らの食べたいものを食べる行為を指すのではないかね。人の腹が減り、人の食欲に基づいて、人の食べたいものを食べる行為は食事ではなく儀式である。ただ口に胃に食べ物を運ぶ行為でしかない」 「はあ」 「さらに言えばかの鷹揚なる紳士の求めているのは食事の『場』であり会話であり『私と食事をする』という事象である。食べ物を求めているのではなく交わされる会話なり私の主張なりを求め、食事の場を設けているのに過ぎないのだ。これはかのレストラン、ひいては料理、食材に対する冒涜ではないか」 「はあ……」 B君は、要するにA博士がこの会食に乗り気でないことを理解した。 御託をつけて、気分ではない会食に出かけたくないのだろうと察したB君は、決してレストランで提供される美味しい料理のためだけではなく、純粋に、ただ純粋にA博士のためだけに代案を提示した。 「そうですか。ではA博士。私はただ、あなたの弟子として、代理として出席させていただきましょう。美味しいと評判のレストランでもありますし、いっこう差支えないのですが」 「……」 「肉料理が自慢だそうですね。何でも、先生がかつて褒めてらした合鴨のローストを一度いただいてみたかったのです。温野菜も楽しみですし、ワインも良いものを揃えていると聞いていましたから――」 「いや。いや。君を煩わせるには及ばない」 B君がレストランで提供される食事に思いをはせていると、A博士はゆっくりと首を振った。 蛇のような顔にはいつの間にか、いつもの強気が戻ってきている。 「弟子の君に、そのような概念の食事など味わわせては申し訳が立たない。ここは食に誘われ、なおかつそれを断り切れなかった私が、その責任をぜひとも取らせていただこう。ああ、そろそろ時間でもあるな。留守番は頼んだよ」 ネクタイ一つ選ぶのに随分と時間をかけていた先ほどまでとは打って変わり、てきぱきと手際よく準備を終わらせるとA博士はその場を後にする。 うまい料理を取られるのが急に惜しくなったのだろうか――、合鴨のローストも温野菜もワインも取り上げられたB君はぽかんとその背を見つめ。屁理屈学の深さを考え始めていた。
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